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問うということ問われるということ

問うということ

 なにかにつけて意味を求めてしまうもの。例えばこんな仕事をしていても意味あるのかな?こんな場所にいて意味あるのかな?こんな人生で意味があるのだろうか?って思うことがある。

 そうやって意味を求めてしまうのは、よく考えると他人と比べた相対的のものだ。つまりそれは経済的に成功していたり、地位や名誉があったりと他人から羨ましがられるようなものだと思う。

 経済力や地位や名誉や権力は誰もが欲しいものなのかもしれない、でもそれを持っている人は一部の人たちであって、世の中の大半の人は普通の人たちだ。もちろんそれを目指すことを否定するわけでもないけれど、世の中の多くの人間はそうではないだろう。ごくごく限られた一人握りの人間。カリスマのような特殊な人間が持っているものだ。

 カリスマに憧れる気持ちも当然だろう。だけれど、自分自身と例外的なものを比べて、自分自身を否定するような問のたてかたそれ自体に意味があるといえるのだろうか。

問われるということ

 逆がある。問われるということがある。自分にしかできないということがある。代替不可能なことがある。自分が問うのではなく、問われている。自分の目の前にあることに自身が問われる。ここを具体的に言葉にするのは今の私には難しいのだけれど、例外的な遠いところと自分を比較するのではなく、自分の目の前のリアリティのある現実を見て、そこで自分自身が何が出来るのかを考えることが大事なのことなのではないかと思う。

 親や友達、彼女や奥さん。会社の上司や部下。そういう日常的に接している人たちの中で自分自身に何ができるのかと問うていくという生き方もできるのではないだろうか。

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