大事にしていくということ
日々、時間に追われ、やらなければいけないことに追われ、そのように過ごしているうちに大事なものを見失っていくような感覚になるのは何故だろうか。
鷲田清一先生は著書『わかりやすいはわかりにくい?』ちくま新書の中でこう述べている。
”人にとって大事なことほど見えにくい。最後まで見えないかもしれない。たとえば<わたし>、その存在の意味、生きることの意味、死の意味・・・・・・。しかしその答えのすぐには見えないこと、ひょっとしたら最後まで見えないかもしれないことを、ひとびとは大事にし、そのまわりに芸術や文化を創ってきた。
こころはその意味で、育まれるものである。それは、思いやりのなかではじめて見えてくることである。壊れてしまわないかと気遣って、いたわり、大切にするなかで子どもの「こころ」は生まれ、そこに住む一人ひとりがその佇まいに思いをはせ、さりげなくゴミを拾ったりするところで、まちの「こころ」は育まれる。
「こころで見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」
枯れないように花に水をやったり、だれかのことを心配したり、つまり何かを大事にするということのなかではじめて「見えて」くるものがある。大事なものは、そいういうふうに大事にしつづけないといつまでも見えてこないものなんだよと、そう、『星の王子さま』のなかの狐がつげている”
大事にしていくとはどういうことだろう。一つひとつを大切に真剣に向き合っていくことを、大事にしていると言うのかもしれなけれど、読んでいると、大事にできなかった。大切にできなかった。そんな気持ちも伝わってくる。
結局、いくら大切にしようと思っても、大事にしていればしているほど、それが出来ないということに直面するんだろう。よくわからないことに直面するのだろう。
人はなにかを100%やり切ることは出来ない。だからといってそこでやめることもできない。後悔や無念に感じることも多いのかと思う。どうなるかも、意味もわかない。でも水をやり続ける。
自分の人生の意味や、自分の存在の意味や、この先どうなるのかもわからない。死ぬときなんてもっとどうなるかもわからないし、死んだらどうなるのかもわからない。死なんてたぶん自分が死んだことも確認できないだろう。結局最後の死すら自分でわかれない。
だからといって生きていることをやめることもできない。自分が大事にされたように、私も大事にしていきたい。
できるできないではない。その内容や想いなどでもない。その大事にしようと振る舞い続けること。
そこから何か見えてくるのではないだろうか。
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