見出し画像

方向性と私はどういう存在かということ

方向性

 この数カ月はあまり良い感じではなかったかもしれない。今思えば遠回りのような感じだったけど、その中で学んだことを書いてみたいと思う。

 何をしていたかと言えば、フロイトを読んだり、上野千鶴子先生の本をカジッたりしていた。去年はデモなんかにも行ったりしたかな。彼女とは相変わらず付かず離れずで2年が経とうとしている。哲学的なことをかじりつつわかったようなわからんようなそんな気楽な日々を過ごしていたり、デモのこと考えたりしているうちに、仕事もなんだか流されるように日々がすぎていった。

 そうこうしているうちに季節の変わり目にさしかかって、仕事もうまくいかない。というか偉い人に呼び出される始末にまで至った。さすがに肝を冷やすというか、正直もうどうにもならないなという気もした。

 そんな中で思ったことは、自分自身がどっちに向かっていったらいいのか?自分が考えてることの足場がなくてとっても不安になっていったこと。そして彼女のこともあり焦ってもいたと思う。

 例えば、ふわふわ流されるように生きてる。それって何からも問われない生き方なのかもしれない。それはそれで楽なんだけどね。だってインプットされたら、それ通りアウトプットすれば良いだけだから。平常時はこれでも何とでもなるんだよね。特になにも起こらなければそれでも大丈夫なんだけど、面倒臭いことに人生そんなに楽にはいかないんだよね。

 そうこうしてるうちにどんどん調子が悪くなっていって、自分が考えること、自分が行動することの一挙手一投足が不安でしかたなくなるんだよね。ちょっとしたことでも足場がない感じがした。どっちにいったらいいか全然わからないっていう感じかな。

 いまでも自分が考えてることや、やってることが正しいとか、正解とかはわからない。じゃー何が自分を一番不安にさせてかっていうと、やっぱり自分の思考や行動の「方向性」がわからないってことが僕を不安にさせたんだと思う。いや、方向性はあったのかもしれない。自分に向かっていたのかも。自分から自分へ向かっていたのかもしれない。

私はどういう存在なのか

 上手く行かない日々でまたいろいろ考えさせられる。実際はクタクタで目先のことを何とかすることしか考えられなかったし、今書いているようなことは考えられなかったのだけど、そんな中でも色々と感じていたのかと思うと自分にびっくりする。

 そんな自分ってどういう存在かってことを少し丁寧に考えてみると、「もらう存在」とか「教えてもらう存在」とか「助けてもらってきた存在」とか言葉は色々と言えると思うけれど、そんなような存在なんだと思う。なかなか上手くいかない日々を過ごしたり痛い目をみてはじめて思い出すというのは大馬鹿者なんだけどね。

 大馬鹿者なのにね。大馬鹿者なのに生きているっていうのはどういうことなのか。こんな大馬鹿者なのに、こんなに性格も悪い人間なのに、その人間性なんて関係なく、伝えてくれたり、教えてくれたり、助けてくれる人がいたからなんだと思う。私は何も持っていない。そんな私になんの見返りも要求せずに、私の性格や行いに関係なく教え伝えてくれた人がいる。そういう人たちに生かされてきた存在なのだろうと思う。


 私が気がつく前にすでに方向性は示されている。


 僕は自分がされてきたことに反発したくなるのだけれど、もう今回で懲りた。また同じことを繰り返すかもしれないけれど、今はそう思っている。素直に自分がされてきたことをやるしかないのではないだろうか。

三日坊主の天才なので続くかわからないけど、またこうやって書いていってみようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?