少女は、ピアノを愛していた。 ピアノが奏でる旋律。 指を躍らせて鍵盤を鳴らしていく。滑らかでしっとりと甘美な音を出す事も出来れば、激しく怒りを表すようかのような音も出す事が出来る。 彼女は、どこか感情が欠落しているが故に、ピアノで感情を表現しはじめ、いつしかそれは表現を越えて愛へと形を変えていった。 ピアノとずっとそばにいたい。 一晩中ピアノを愛でてあげたい。 だがピアノは人であってはならない。ピアノだからこそ彼女は愛す事が出来るのだ。 ピアノの奥底の精密な
構って欲しくて自殺行為をした訳じゃない。 何もかも逃げ出して、楽になりたかった。 折角決まった仕事。私の性格上の責任感の強さと仕事を覚える事に対しての遅さが相まって、同じ日に入った同期にどんどん先を越された。 私も早く同期に追いつけるようにしなければ。 仕事は楽しかった。だが、自分の仕事を覚える遅さに不甲斐なさや悔しさを覚え、どんどん自信が無くなった。 明日は仕事だ、明日も頑張って 1人前にならなければ。 自分のペースは必ずしも誰にでもある。だが、隣で上達して
1月12日、私は2度目の自殺行為を行った。 その日は友人と彼氏とラーメンを食べて、 彼氏と遊び、段々と日が暮れてきた頃、突然 希死念慮が浮かんできた。 次第に希死念慮から自殺念慮へと変わり、 彼氏にはその事を告げずにそれぞれの家へ向かった。 JRに乗って壁にもたれながらイヤホンを付けて、聴いているのは Acid Black Cheeyの 「少女の祈り」「少女の祈りⅢ」 【ただ愛されたかった 少女の祈り.......】 【笑えるでしょう? また一人ぼっちね 愛とか
「うつ病の方は朝の10時までには起き、陽の光を浴びて、体を動かし、自傷以外のストレス解消方法を見つけましょう。そして夜更かしせずにきちんと睡眠をとりましょう。夜になればなる程、余計な事を考えがちになってしまいます」 某精神科医YouTuberがそんな事を言っていた。 休職期間の今、貯金は減るばかり。 何もする事が無い。 何もする事も無いので夜更かしをする。 食生活はお金を気にして偏り、 各臓器にガタがきた。 何もする事も無ければ、お金も無い。 ならば、〇交でも風
私は、芸術的面で他の人より多少は優れている ので特技だと感じています。 絵を描く事や文章を書く事もそこまで厭わない し、カラオケは98点まで出ました。 コーディネートは、必死に勉強して何とか 自分の上手くいく所まで来てと、自尊心が低い 性格の中でも自慢に思える事は多少なりにはあります。 それを仕事にしてみたい。 そう思う事もよくありました。 けれど、仕事にするまでの高いスキルが無い。 つまりは、人よりは多少優れているが、それ以上がない中途半端な特技なのです。 そ
流れゆく景色を呆然と見つめながら私達が 乗る車は、札幌のとある区のDVシェルターに 到着しました。 外の玄関は高い鉄格子で施錠され、周りは ブロック塀で囲まれ、逃げ出す事も侵入する 事も出来そうにない様子の防壁。 建物自体はシンプルな白い箱の様で、逆に それが妙な怖さを物語っています。 警察官二人を先頭に、大きな荷物を持った 私達は逃げ込むようにシェルターに入っていきました。 着いてすぐ、警察官と母親でDVシェルターの 館長と話をし、ここで警察官の方達とは別れました。
その日私は午前授業、父は休日、母はパート、 妹は学校で、私達は二人で日中を過ごしました。 何かある訳でも無いですが、その日父親は 何故かイライラして落ち着かない様子で、 また理不尽な事で暴力を振るわれるのでは、 と思い私は自室へ逃げるように隠れました。 それは、よく晴れた穏やかな日射しに溢れる日でした。 「おーーい、○○。これ何だか知ってるか?」 リビングから私を呼ぶ父親の声。 何故か恐ろしい程に穏やかな声で、 直感で、やばい。 そう感じました。 呼
こうして友人らしい友人がイマイチ安定しないまま、暴力と宗教と孤独とリストカットで つまらない中学生生活を終えます。 今までの学生生活がパッとしなかったので、 高校からは勉学に励もうと意気込みました。 私は小学生から頭が悪く、LD(私の場合、数学的面で)の疑いがあった為、高校では同じ学力の生徒達がいるという安心感もあったので、 高校生活が始まると猛勉強をしてすぐさま クラスで2位、次は学年で1位を取り、 努力は報われる。 そう信じて隣の席の子がどんなに授業中に ふざけて
鬱々とした小学生を過し、 やがて中学生になりました。 相変わらず暴力や宗教もリストカットも続き ながらも、新しい人達で溢れかえる教室で 相変わらず静かに過ごしていました。 ある時、席替えをして隣になった女の子と ポツリポツリと話す内に、 この子とは気が合う。 お互いそう感じるようになり、やがて友人の ひとりになりました。 どこへ行くのも何をするのも一緒。 私は完全に彼女に依存していましたが、今度はそう上手くはいきませんでした。 彼女に依存する私が彼女には段々と苦痛
父親と母親からの暴力、毎週日曜日に連れていかれる新興宗教、つまらない学校。 5年生へ上がると、私はアニメや漫画に興味を 持ち始めました。 それと同時に共通の趣味を持った友人が何人か出来たので、つまらない学生生活から少し 抜け出す事ができ、徐々に楽しいと思える様になってきました。 その頃いた友人の1人が、私のメンヘラ街道 まっしぐらへと転落する為の1人の人物でした。 彼女も家庭環境が複雑で、ある時は眼帯をして登校したり、またある時は手首に包帯を巻いて登校し、いつも病んでい
父親が私達に暴力を振るい続ける毎日。 耐えきれなくなった母は、いつしか私と妹に 暴力を振るうようになりました。 「お前の育て方が悪いからこんな出来の悪いガキが出来るんだよ」 と、父親が私と母親にひとしきり暴力を 振るった後、母親はヒステリックになり 「お前のせいでこんなに暴力を振るわれたんだ」 そう言ってよく私に殴りかかり、心も身体も ボロボロでした。 そしてその頃でしょうか。 小学校4年の時、ある日曜日に母親が 「お父さんには絶対言わないでね」 と、私
相変わらず家庭内暴力が続く中、 私たち一家は引越しをし、私は新しい幼稚園に通うことになりました。 もうこの段階から人付き合いが苦手だと自覚をしています。 普通に接しているだけなのに変わった子と 思われたり、よく喧嘩ばかりして母親が その度に呼び出されていました。 小学校へ上がると、見た目や個性的な 性格・独特な言動のせいで男子にからかわれ、その度に取っ組み合いの喧嘩をして身体に 痣を作っていました。 その頃辺りからでしょうか。 いつしか父親が母親に対する暴力が私や妹に
9月、コスモスの咲く頃に私はこの世に誕生しました。 大人しく、泣く事も少なく、物静かで素直な子だったそうですが、この頃から食欲は人一倍旺盛だった様です。(母乳を飲み過ぎて乳首が切れたそう) そしてある程度大きくなれば、知性が芽生え、 記憶や学習能力が育ちます。 子供の頃の記憶って結構新鮮に覚えている事が多いですよね。 滑り台で着地に失敗して血を出したとか、 アリの巣に水を入れてイタズラをしたとか。 ありふれているけど自分の中では大切な記憶。 でも私の人生で初めて覚
こんにちは、初めてnoteを作成してみました。 至らない事が多いでしょうが、どうか最後まで読んでくださると幸いでございます。 さて、タイトルの様に私は 【不幸が多い生涯を送ってきました】 不幸な事を自ら発信する事というのは、 周りにとって何もメリットも無くただ不快に 思うだけでしょうが、せめてここでは書かせて(言わせて)ください。 不幸な事や、理不尽な事、0か100しか考えが 無い事や、人間の普通とは何ぞや?と迷い、 出会い系サイトでバカスカやりまくっていた事等、包み隠