あの日、父親を殺そうと思った。そして。

その日私は午前授業、父は休日、母はパート、
妹は学校で、私達は二人で日中を過ごしました。

何かある訳でも無いですが、その日父親は
何故かイライラして落ち着かない様子で、
また理不尽な事で暴力を振るわれるのでは、
と思い私は自室へ逃げるように隠れました。

それは、よく晴れた穏やかな日射しに溢れる日でした。

「おーーい、○○。これ何だか知ってるか?」

リビングから私を呼ぶ父親の声。

何故か恐ろしい程に穏やかな声で、

直感でやばい。

そう感じました。

呼ばれるままリビングへそーっと足を運ぶと、

床には辞典のように厚みがあるソレが雑然と
置かれていました。

母親が隠していた新興宗教の聖書です。

私は血の気がサーっと引きました。

母親の隠していた秘密がバレた。

「お前、これ何か知ってるよな?」

「.......新興宗教の聖書です」

「お前達も通ってたのか?」

「..............、はい....」

私のその言葉を聞くなり、父親はハーーっと
深くため息をつき、「もう駄目だわー」
そう呟きました。

その一言に冷や汗がドッと吹き出し、背筋が
凍り、思わず立っていられなくなった私は床にへたりと座り込みます。

「もう母さんとはやっていけないから、今から両方の親に電話して離婚するって言うから」

そう告げるとすぐさま父親は母親の両親に電話をかけ、今までに聞いた事の無い怖いぐらいの
穏やかな声で話し始めました。

どうしよう。
このままでは母親はおろか、私達は殺される。

いつも暴力を振るわれていので、間違いなく私達は殺されてしまう。直感でそう感じました。

この上ない恐怖と憎悪、日々憎しみを募らせていった思いがその時一気に爆発し、冷や汗を
垂らしながら人生でこれ程かと思う位の恐怖に
おののき、絶望と殺意が湧く中、私は異常な
までのある考えが思いついたのです。

この状況を知らない母親が帰ってくれば、必ず殺される。

そうだ。母親が殺される前に、私が父親を
殺せばいいんだ。

私は父親を殺して、殺人鬼になって、
捕まっても良い。母親を助けられるなら
私が罪を犯しても構わない。

これから私に殺されるとはつゆ知らず、背中を向けて電話で会話をする父親の大きな背中を
じっくりと凝望しながら、バレないように、
気づかれない様に忍び足でダイニングへ行き、一番切れ味の良い出刃包丁を、怨念を込めて
ゆっくりと抜き取ろうとした所で、

どうしてでしょうか、
ピタリと手が止まったのです。

こんな時に理性が殺意に勝ったのです。

殺したい、でも殺してはいけない。殺したい、でも..............駄目だ..............。

この期に及んで私の脳と感情は思い留まり、
一度心を落ち着かせてから、電話をかけ
終わった父に咄嗟に私はこう言いました。

「ねぇ、シャーペンの芯がもう無いから
コンビニで買ってきてもいい?」

本当に買ってくる訳ではありません。
今この場から離れて、
近くの公衆電話で警察に連絡をしよう。

震える手を握りしめて、
消え入る様な声で問うと、

「良いけど、すぐ帰ってこいよ」

案外すんなりと父親は許してくれました。

私は、高校1年生の当時にしては珍しく、携帯電話を持っていませんでしたので、やむ無く
近くの公衆電話で警察に言わなければと
考えついたのです。

父親の許しがもらえると、私はすぐさま財布とカバンをもって上着を着て、逃げるように

「行ってきます」

と外へ一目散に掛け出しました。

それが父親との最後の言葉です。

泣きじゃくって涙と鼻水で顔がグシャグシャになって嗚咽混じりで走り、近くのスイミング
スクールへ駆け込むと、すぐ様公衆電話で
110を押しました。

短い間で余りに強烈なストレスがかかり、
警察に繋がっても咽び泣き、嗚咽ですぐには
話せませんでしたが、やがて穏やかになると
事の全てを話し、このまま母親がパートから
帰ってくれば必ず父親に殺されるので助けて欲しい。
蚊の鳴くような声で懇願しました。

そこからは物凄いスピードで事が進みました。

私はそのまま近くの警察署へ行き、
母親と妹には警察が連絡をしたのですぐに
二人と警察署の中で再開しました。

熱い抱擁を交したのも束の間、強面の
中年警察官と若くてチャキチャキとした
女性警察官がやってきて、私は事の全貌を
ゆっくりと話し出します。

日頃から家庭内暴力があったので、証拠として女性警察官には身体に痣が無いかをチェック
され、その間母親は中年警察官に今日までに
至った経緯を話していました。

ひとしきり話が終わると、中年警察官は拳を
握り、神妙な面持ちで重い口を開き、

「これから貴方達の父親にもこの事を説明して、
一度警察署へ連行します。あなた方はその間に
必要な荷物をまとめて下さい。
そして私達の車で札幌にあるDVシェルターへ
行きます。DVシェルターはDVを受けた女性が
身を隠す一時避難施設で、住所は愚か名前も
公表されていないので安心して下さい」

めまぐるしく事が動き、私達は言われるがまま
父親と入れ違いで自宅へ足を運びます。

「なるべく30分で用意して」

女性警察官がそう言うと、私達は急いで必要な
物を適当なカバンに詰め始めました。

洋服、下着、財布、判子、通帳、音楽プレーヤー.......。

母親はこの期に及んで教祖様の写真を持ち込んでいました。

30分後、荷物を積み終えると家の前に
黒塗りでスモークが貼っているワゴンが止めてありました。

「これに乗って下さい。すぐにシェルターへ
出発します」

夜逃げってこんなに呆気ないんだ。

車が発進すると、住んでいた家が窓の外へ
流れゆき、見慣れた景色を越えて、呆然と
しながら何を発すること無く過ぎていきました。

母親は肩を震わせて咽び泣き、妹は神妙な
面持ちで母親の背中をさすっています。
私にはそんな余裕が無い位でしたので、
ただポカンと口を開けて何も考えられず抜け殻の様になって窓の外を眺めながらDVシェルターへと向かっていくのでした。