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母の記憶(2)~火に覆われた町がとてもきれいだった~

画像は「みんなのフォトギャラリー」からお借りしました。当時、母が毎日見ていた空はこんな感じだったのではないかなと思いました。

昔、日本はアメリカと戦争をしていたという

何年前かは忘れたのですが、

街頭インタビューで、

日本とアメリカが戦争をしていたのを、

知っていますか?と、

若者に質問するという企画がありました。

なんてバカな質問かと思っていたら、

知らないという若者がいました。

このことが妙に心に残っています。

知っていても祖父母の時代です。

あの戦争を知っている世代が、

少なくなっているのは確かです。

最近の母は、

戦争だけはアカン、

何度も何度も言っています。

「空襲(くうしゅう)」というものが

日本がアメリカと戦争を始めた頃には、

日本が優勢な時期もあったらしいですが、

後半はボロボロでした。

日本にアメリカの戦闘機が飛んできて、

人々が暮らしている町に、

焼夷弾(しょういだん)を、

たくさんたくさん落としたのです。

焼夷弾で火事になり、

命を落としたり、家が燃えたりしました。

東京や大阪などの都会だけでなく、

小さな町でも空襲に遭いました。

母の町に空襲がやってきた

ある夜のことです。

「空襲警報発令!」

毎日響く声に母は目覚めました。

毎晩、同じ言葉で起こされるけれど、

この日はいつもと違っていました。

本当に「敵機襲来」だったのです。

母は家族と一緒に、

逃げようとしました。

走り始めると、

目の前に焼夷弾が落とされ、

方向を変えて走っていると、

また目の前に落とされてしまう、

ということの連続です。

逃げながら母は、

前を走る祖母に、

「けんちゃん、生きてるっ?」と、

何度も聞かれてのぞき込みました。

末っ子の弟はまだ産まれたばかりで、

祖母の背中に負われていたのです。

何も知らない赤ちゃんも、

今では79歳になっています。

話を聞きながら謎に思うことが

上空の戦闘機から、

逃げている人が見えるなんて、

あり得ないから偶然じゃないか、

と、わたしは思っていました。

すると先月、テレビで、

戦闘機から見た町、

というのを偶然、見ました。

なんと、

本当に逃げている人々が、

はっきりと写っていました。

ホンマやったんやわ…。

もう何百回も聞かされた話を、

初めて確認した映像でした。

話は戻って火の中を逃げて

結局あまり遠くに行けないままの時、

近所のおじさんがリヤカーを引いて、

やってきました。

家に残っていた歩けない伯母と、

小学生の姉と母とが、

リヤカーに乗せてもらって逃げます。

すると焼夷弾の火でタイヤが燃え始め、

慌ててリヤカーから飛び降りました。

伯母を道の脇の田んぼに移動させて、

みんなも田んぼに飛び込んで、

布団を田んぼの水で濡らして、

潜り込みました。

濡らした布団はかなり重いはずです。

でも生き残るために必死で、

重いなどと考える余裕はなく、

とにかく暗い田んぼの中で、

動かずに時が過ぎるのを待ちます。

燃え尽くしたと気が済んだらしく、

戦闘機の集団は去りました。

待ち合わせは山の中腹で

母の家族はバラバラになり、

他の家族が生きているかどうか、

全くわからないまま、

山の中腹まで逃げました。

何かあったらここでと、

前もって決めておいたのです。

なんとか逃げ切って、

やっと少し安心した母には、

振り向く余裕が出来ました。

すると、

目の前に、

燃えて火が立ち上る町が見えました。

なんと綺麗な景色かと思った。

何百回も語ってくれた空襲の話は、

必ずこの言葉で締めくくられます。

空襲の空が近づいてきて

隣の町に住んでいた父は、

真っ赤に燃え上がる隣町の空を見て、

次はここだ、と思っていました。

毎日見る「赤い空」が、

だんだんと近づいていたのです。

いよいよかという時、

唐突に戦争が終わりました。

1945年8月15日。

日本はついに負けたと発表しました。

翌日、

父の住む町の上を、

戦闘機の集団が、

低空飛行でグルグルと、

回り続けたのです。

戦争が終わっていなければ、

ここに焼夷弾を落とせた。

残念に思っていることが、

小学生の父にもわかりました。

筆箱には悲しみが

父の生活は急速に戦後という、

時代の波に乗りました。

しかし母の家族に残ったものは、

極貧生活だけでした。

家財はすべて焼けて、

住む場所もなく。

やむなく焼け残った、

公民館のトイレで、

何日かを過ごしました。

遠い親戚に呼ばれて、

山奥の村に住むことが出来ました。

そこで、

焼け出されたからと、

文房具を支給されました。

筆箱などいくつかあったけれど、

他のものは覚えていません。

でも支給されたことが、

逆に悲しかったと言います。




何百回も聞いた話ですが、

文章にするとうまく書けません。

やはり体験した人の話を、

直接聞くということは、

どんなことでも大切だと、

改めて思っているわたしです。


【シリーズ:母の記憶】でした。










地味に生きておりますが、たまには電車に乗って出かけたいと思います。でもヘルパーさんの電車賃がかかるので、よかったらサポートお願いします。(とか書いておりますが気にしないで下さい。何か書いた方がいいと聞いたので)