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書評「異文化理解力」 #2

前回に引き続き、書籍『異文化理解力』の私自身が特に関心を持って読んだ箇所を紹介したいと思います。

私の自己紹介についてはこちらの記事にまとめているのでここでは詳しくは書きませんが、大雑把な経歴は、日本に生まれイタリアで育ち(計17年イタリアで過ごし)、就職を機にまた日本に戻り、現在はアメリカで暮らしている、といったところです。


はっきり発言をする・遠回しに伝える

アップグレード言葉/ダウングレード言葉

言語学では、言葉の前後に付けて意味を強める言葉のことを「アップグレード」の機能を持つ言葉といい、はっきり発言する文化で使う傾向にあるようです。反対に、遠回しに発言する文化では、和らげるような「ダウングレード」言葉を使う傾向にあるようです。

具体的には、アップグレード言葉は絶対的に(absolutely)、全く(totally)、とても(strongly)などがあり、ネガティブな発言の前後に付けて意味を強める役割があります。ダウングレード言葉の例は、とも言える(kind of)、多少(sort of)、少し(a little)などがあり、本心では強くネガティブな感情を抱いていても実際の発言は慎重に聞こえる、といったところです。

多くのヨーロッパの国は直接的なネガティブ・フィードバックをする傾向にあるらしく、イタリアも例外ではありません。つまり、アップグレード言葉を多用する傾向にあるということです。これは、自分自身を振り返っても上記のような言葉を無意識に使っている気がします。

私と夫の間で感じる文化的相違

話している言葉は日本語でも、イタリア人のマインドのままアップグレード言葉を使っていると、「なんて決めつけが激しい人!」「気/我が強い!」「感情が激しい!」という印象を与えかねません。実際、私のことをそう思っている人もいるだろうなあ、とふと思いました。

よく夫にも言われることが、「なんでそんなに怒ってるの?」と。え?そこまで怒ってないけど?と思いつつ、夫には私が怒り散らしているように映るのでしょう。なるほど、これが文化的相違か。

では、日本で生まれた日本人の夫には感情がないのでしょうか。怒りや不快感など、ネガティブな感情を抱くことはないのでしょうか。もちろん、そんなことはなく、彼も人間で案外不寛容なタイプです。ただ、文化的に表現を「ダウングレード」する傾向にあるのでしょう。

例えば上司が部下にフィードバックをするとき、「うーん、やや改善が必要かな」「もう少し責任感を持って行動してほしい」など、慎重に批判を行うといえば、(特にこのご時世はパワハラで訴えられるのも怖いし)思い当たる方も多いのではないでしょうか。

見解の相違:喧嘩しても元通り?

ディスカッションは喧嘩ではない

高校生くらいになると、クラスで政治や社会の話で議論することが増えた記憶があります。その頃の私たちは、自分自身の意見というよりかは、おそらく親や周りの大人の意見の受け売りだったように思いますが、支持している政党やその理由などについて(時には激し目に)ディスカッションしたりもしました。

上記の通りイタリアでは割とアップグレード言葉を多用する文化にあるようなので、例えば「絶対、お前の支持している政治家は間違ってる!」とか「間違いなく選挙では奴に投票しない!」とか、側から聞いていると激しく口論している二人の関係性に亀裂が入らないか心配になるくらい、互いの意見を否定します。

でも、面白いことに、その議論が一通り収束すると、双方わだかまりもなく何もなかったかのように次の話題に移ります。これは、日本で幼少期を過ごした私にとっては、イタリア人の父を持っていても、驚きでした。

建設的な議論を行う喜びを感じる欧州人

『異文化理解力』にも同様の話が紹介されています。プレゼンの最中に激しく疑問や矛盾点を追求してきた人物たちが、終了後に褒め称えにきたと。
つまり、プレゼンターは文化的にそういった行為に慣れておらず、公衆の面前で責め立てられているように感じ屈辱的に感じたようです。ただ、批判をした側は特にプレゼンター自身を攻撃したつもりは全くなく、むしろ、建設的な議論をしたことに満足感を感じ、プレゼン終了後に「良い議論だったね」と言わんばかりに褒め称えてきたということです。

良いプレゼンとは、建設的な議論を行うに値する良い材料を投げかけるもの、という認識が根底にあるからです。

思い返せば、小学校から大学院を修了するまで、イタリアの学校では筆記テストよりも「口頭」での試験が重視されていました。習った知識をただ脳死で覚えるだけじゃ、なかなか合格できません。先生や周りの生徒からの「なぜ?なぜ?”攻撃”」を真正面から受けて立つ必要があるからです。

正直なところ、重箱の隅を突くようなことを!と思ったこともありました。でも、これは(多くの場合)人格否定ではないのです。建設的な議論をすることで知識が知恵に昇華される、と深く信じられており、おそらくヨーロッパ文化に絶大な影響を与えた哲学者・ヘーゲルの弁証法(詳しくはこちら)が無意識に根付いているようにも思います。

なので、欧米人が批判をしても、そこまで深刻な否定と受け止めなくても良いと私は思っています。むしろ一番深刻に考えるべき状況は、欧米人が何も意見を言わないときです。つまりそれは、議論するに値しない、つまらない話だと捉えている場合があるからです。(続きます)


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