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五百年後、外宮 豊受大神宮ご鎮座“倭姫命版”ヒーローズジャーニー48ことの葉綴り一〇二三

“倭姫命版”ヒーローズジャーニー48

おはようございます。本格的に寒くなってきましたね。皆さん、師走の日曜日いかがお過ごしですか?
十二月十八日(日)の暦は、前回もお伝えしましたが、大安+巳の日+納めの観音と、お参り日和です。
私も、少し遠目に方位を取ってお参り行ってきます。
皆さんも、師走詣でいかがでしょう。

さて、今年ずっと続けて書いてきました、倭姫命さまの物語もあと数回で、“終しまい”にしようかと思っています。あと少しおつきあいください。


来年、令和五年、倭姫命さまをお祀りする「倭姫宮」が、ご創建百年を迎えます。

二千年以上も昔、皇祖神の天照大御神さまを、伊勢の神宮にお祀りされるまで、皇女二代の八十年以上の長きにわかるご巡幸の旅の物語。
崇神すじん天皇の皇女、豊鋤入姫命とよすきいりひめのみことさま
垂仁すいにん天皇の皇女、倭姫命やまとひめのみことさま。

天照大御神さまのご神意のままに旅をされて、五十鈴川の川上にお祀りされてからも、志摩や南伊勢にも旅をされてご神饌、祭祀などを定められて、後継の斎王も定められて、倭姫命さまご自身は、五十鈴川沿いの宇治の機殿に住まわれて、ずっと天照大御神さまにお仕えされました。
ご巡幸を共にした重臣たち、家臣たち、物忌みたちを大切にされて……。

外宮 豊受大神宮

丹後の国の豊受大神さまを迎えて

『倭姫命世記』の物語では、この後、天照大御神さまより、丹後の国にいらっしゃったお食事を司る豊受大神さまを、「伊勢にお迎えするように」と、ご神託をお受けになります。

そして、|大若子命を朝廷に派遣し、報告をされて、翌年には、丹後の国より、|止由気大神《とようけのおおかみ>さまを、伊勢にお祀りされました。
それが、伊勢の神宮の外宮こと「豊受大神宮とようけだいじんぐう」です。
天照大御神さまのお食事を司ることをはじめ、蚕業の守り神さまです。

……で、この豊受大神宮がお祀りされたのは、今から五百年前とされています。

ここで疑問がでますよね。
倭姫命やまとひめのみことさまって、五百年以上も生きていたの? と。

倭倭姫命世記やまとひめのみことせいき』では、外宮こと豊受大神宮とようけだいじんぐうをお祀りされて、天照大御神さまより、外宮、摂社、お祭りの仕方をお諭しされて、そのご託宣を、神宮にお仕えする宮人たちにお伝えされてのり、倭姫命さまは薨去こうきょ(亡くなられた)されたと綴られています。


外宮 豊受大神宮

倭姫命さまは一人じゃなかった?!

神宮司庁編・著『図解 伊勢神宮』には、こんな風に書かれています。

「倭姫命は一人ではなかった?」
倭姫命の功績を記した『倭姫命世記』には、倭姫命は御鎮座の後も永く神宮に奉仕され、豊受大神宮の御鎮座の後、亡くなったと書かれています。
ほかの文献の年代から計算すると500歳以上の年齢となります。
もし『倭姫命世記』を信じるならば、「倭の国王の姫君である天照大御神の御杖代みつえしろ斎王さいおう)をさして「倭姫命」と呼んだのではないか、とも考えられます。

神宮司庁編・著『図解 伊勢神宮』

と……。


外宮 豊受大神宮

なるほど~と思います。
ここで、思い出して欲しいのですが、叔母の豊鋤入姫命とよすきいりひめのみことさまが、ご巡幸の旅の果てに「私は年老いた。日足りぬ」と、姪っ子の倭姫命やまとひめのみことさまへと、天照大御神の御杖代みつえしろを継承されて、ご巡幸の旅が続けられます。
そして、このいきいきとした、また喜怒哀楽のこころも読み取れるご巡幸旅の物語……。
神宮に天照大御神さまをお祀りされたあと、倭姫命さまも、天照大御神の御杖代みつえしろ斎王さいおう)を、姪っ子の五百野いほのの皇女に継承されたとも綴られています。

私が、勝手に感じるのは、この継承までは、まさに、
豊鋤入姫命とよすきいりひめのみことさま、倭姫命やまとひめのみことさまは、そのままのお一人お一人の皇女だったのではないかしらと。

やがて、神宮がご創建されて、姪っ子の五百野いほのの皇女に継承されて……。

その後も、斎王は、歴代の皇女に引き継がれていきました。
ただ、約五百年後の外宮、豊受大神宮の御鎮座のころには、きっと継承された斎王がいたのだろう。
それを、『倭姫命世記』では、一人称の「倭姫命」として綴ったのではないかな~……と。
けれども、 姪っ子の五百野いほのの皇女に、斎王を継承されるまでは、倭姫命さまはお一人だったのではないか……と。一人勝手に”妄想”しているのです(^^)


―次回へ


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