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相撲を愛する天皇と王(みこ)神事相撲は今も続く! 垂仁天皇⑤神話は今も生きている ことの葉綴り。二八三

地元を慈しみ、母と子と共にご祭神に

こんばんは。今夜、ようやく「ことの葉綴り。」に向かえました。

すぐに、神話の物語の続きをご紹介です。
第十一代伊玖米入日子伊沙知命(いくめいりびこいさちのみこと)こと、垂仁天皇(すいにんてんのう)の系譜の続きです。
七人のお妃と、十六柱の皇子。
いよいよ七人目のお妃のご紹介です。
こちらは、六人目のお妃の山代の大國の淵の娘苅羽田刀辨(かりばたとべ)のです。

七人目の妃、弟苅羽田刀辨(おとかりばたとべ)を娶り誕生したのは
石衝別王(いはつくわけのみこ、磐衝別命とも書く)
父である垂仁天皇(すいにんてんのう)の御代に、北陸の羽咋の地に、疫病が流行し、盗賊も横行。さらには、森に毒を持つ鳥まで現れて、人々を苦しめていました。
この王(みこ)は、父の垂仁天皇(すいにんてんのう)に「羽咋を鎮めよ」と、詔(みことのり)をうけて、羽咋へと移られ、毒鳥と盗賊を退治し、人々に農業を指導したことから、人々が安心して暮らせるようになったといいます。
そして、羽咋の君、三尾の君の祖先となります。羽咋は、石川県の羽咋市のあたりです。
農耕の指導をされて、地元の人々を愛されたそうです。
その御子の石城別命(いわきわけのみこと)が、父の志を受け継いで、羽咋の国造となられ善政をされたそうです。
そして、石衝別王(いはつくわけのみこ、磐衝別命とも書く)は、、母弟苅羽田刀辨(おとかりばたとべ)と、子の石城別命(いわきわけのみこと)共に、羽咋市の「羽咋神社」さんのご祭神としてお祀りされています。

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相撲好きの王(みこ)の神事相撲は今も!

石衝別王(いはつくわけのみこ、磐衝別命)は、相撲が大好きだったそうですよ。
 相撲の初の天覧試合をされたのは、父の垂仁天皇でしたよね。
そして力士の野見宿禰(のみのすくね)を配下としても、とても信頼されました。

 きっと、子供のころから、父である垂仁天皇の天覧試合の相撲をご一緒に楽しんでいられたのかもしれませんね。北陸の羽咋へ移られてからも、大和の故郷を思い出されていたのでしょうね。
 相撲好きだった石衝別王(いはつくわけのみこ)を偲んで、ご命日の九月二十五日には、「羽咋神社」の唐戸山相撲場で、古くから神事相撲が行われてきたそうですよ。
 この相撲場、不思議な形をしていて、すり鉢状の凹地で、底が土俵になっていて、天然の桟敷席になっているそうです。
そして、この土を掘って、石衝別王(いはつくわけのみこ、磐衝別命)の御陵をつくったと言い伝えがあるそうです。

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父の垂仁天皇(すいにんてんのう)のはじめた相撲が好きだった王(みこ)
羽咋に移り住んでからも、相撲を楽しみにしていたなんて、なんだか微笑んじゃいます。
そして、王(みこ)の御陵の土に、その土俵の土をつかわれて、地元の人々が偲び、神事相撲が毎年おこなわれるようになった。
なんだか、いいエピソードですよね。

 江戸時代に、「力競べ」が禁止になった時代にも、この神事相撲だけは古から行われている特別なものとして、藩からも許しが出ていたんですって。
 そして、今年は中止となりましたが、「羽咋神社」の相撲場では、今も、「水なし、塩なし、待ったなし」の神事相撲が続いているんですよ~!!

まさに、神話は今も生きている!! です!!

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英雄の妃になる皇女も


石衝毘賣命(いはつくわけのひめ)またの名を、布多遅能伊理毘賣命(ふたぢのいりびめのみこと)
この比賣(ひめ)は、こののち、古代の英雄、悲劇の英雄や、白鳥伝説で知られる、倭健命(やまとたけるのみこと、日本武尊)の、お妃になります。


と、垂仁天皇(すいにんてんのう)の系譜でした。

さあ次回から、垂仁天皇(すいにんてんのう)の物語をご一緒に読んで参りましょう!

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―次回へ

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