苦しみの先の光 須佐之男命様の“変容”ことの葉綴り。其の百十一
罪を贖い“変容”した孤独なアウトロー
こんにちは。雨の夕方、「ことの葉綴り。」に向かいます。
神話は今も生きている!
神様も“失敗”されて成長された物語。
やんちゃでマザコンのワガママ神だった須佐之男命さま。
暴力のやり放題で、姉の天照大御神さまが、天の石屋戸にお隠れになる原因にもなりました。
八百万の神々から、高天原から追放され、
「天つ罪」を贖うことで、清め祓われていきます。
孤独なさまようアウトロー。
“なにものでもない”自分と向き合い、
ご自身のしてきたことの愚かさに気づき、
苦しまれたのではないでしょうか。
神話の物語は、この後、須佐之男命さまが、葦原中つ国の出雲国へと降り立たれたところから始まります。
皆さんご存じの、八俣の大蛇(やまたのおろち)退治です。
その前に、孤独なアウトローの“空白”を、
少し想像してみたいと思います。
もともと、神生みでお生まれになって以来
ずっと、ずっと亡くなった「妣上(ははうえ)に会いたい」と
泣き続けていたのです。
山も枯れ、海、川の水も涸れて、葦原中つ国をピンチにしました。
父の伊邪那岐命さまは、困り果てられて
「母のいる国へいけ~」と追放されます。
そうです。須佐之男命さまは、死の国へと向かうはずでした。
“母上に会える”やった~。その前に、姉上に会おう~“と
気分ルンルンで高天原へ昇ったのです。
姉から、「高天原を乗っ取りにきた」と“誤解”もされ、自分の身の潔白を晴らすために、「誓約(うけひ)」による神生みをして、
「自分は三女神を産んだから勝った~」
と、調子にのりすぎて、やりたい放題の暴力三昧。
須佐之男命さまにとって、幼児性が抜けず、
見えているのは、視野が狭くなり目の前のことだけ。
冷静さもなく、姉神、父神、八百万の神々など
周りのことへの配慮もありませんでした。
高天原も葦原中つ国も、夜だけの世界にしてしまった。
八百万の神々から、清め祓われて、
天つ罪という罪を贖い、
追放された我が身。
ようやく、須佐之男命さまは、
それまでの自分を振り返り
向き合ったのではないでしょうか。
「中今」と「マインドフルネス」
須佐之男命さまの、“変容”について、
ふとご紹介したいことが浮かびました。
それは、「神道」とは違うのですが、
「マインドフルネス」を提唱された
世界的に知られる仏教の精神的指導者で
禅僧のティク・ナット・ハンさん。
ベトナム出身ですが、国外追放されて
フランスに「プラムヴィレッジ・瞑想センター」を設立。
世界中から集まった人々に瞑想指導を行っています。
ダライ・ラマにつぐ、仏教界のリーダーです。
神道には、「中今」という言葉があります。
過去、未来をふくめた「今」を大切にということ。
ティク・ナット・ハンさんが提唱された、
「マインドフルネス」も、「今、この瞬間に気づいて目覚めているエネルギー」のこと。
「今」を大切に生きる。
呼吸をして、過去、未来に行ってしまった意識を「今」に戻す。
私には、「中今」のこころが、「マインドフルネス」の実践と
とても近しく感じているのです。
このティク・ナット・ハンさんの言葉で、
とても身に染みたものがあります。
神話の須佐之男命さまの物語を綴っていて、
高天原から追放されて、
葦原中つ国に降り立たれるまで
その「空白」の「変容」について感じたとき。
ティク・ナット・ハンさんの言葉を思い出したのです。
苦しみの意味
ティク・ナット・ハンさんは、10代の青年から、「苦しみ」の意味についてリトリートの中で聞かれたとき、静かにこう答えているのです。
苦しみの中から沢山のことを学べます。
「苦しみ」という背景があって、
はじめて「幸福」を感じられます。
だから私たちは、成長のために、
ある程度の苦しみは必要なのです。
私たちの理解と思いやりを育てるためです。
私の経験では、何かに苦しんでいるとき、
その“苦しみの成り立ち”を深く観てみましょう。
苦しみから生まれる明るいもの、に気づくのです。
「ネガティブ」の中に、私たちは、
より明るいものを見出せるのです。
だから、「苦しみ」を恐れることなく、
すべての苦しみに向きあい、
腕に抱き、深く観てみましょう。
「苦しみ」に対する理解が生まれるでしょう。
「苦しみ」についての理解を持つと、
もう「怒る」ことはしないですし、
人を「罰する」必要がなくなります。
私たちは「思いやりの心」を得るのです。
“思いやり”を得た私たちは「幸せな人」です。
私たちも生きる上で、苦しみにとらわれることもあります。
ティク・ナット・ハンさんの言葉のように
目をそらさずに向き合ったとき
苦しみから生まれる明るさに気づけたときの
ありがたさ。
長い長いトンネルを歩きながら
先に一陣の光が見えたように思えますよね。
須佐之男命さまの変容
須佐之男命さまは、これまでの物語では、
“我が身のことだけ”でした。
けれど、追放され、罪を贖い
孤独のアウトローとしてご自身と、
向き合われたのではないでしょうか。
自分の犯してきた、過ちを理解し、認め、
自分の抱えている、苦しみとも向き合われ、
自分は一(柱)人で、存在しているのではないこと。
周りとの相互関係の中で、存在し、影響を与えあっていること。
0になり、なにものでもないものになり
そこから、本来お持ちの勇壮な力強さと、大きなスケール。
その神聖さを、ご自身が自覚されたのではないでしょうか。
母恋しい
姉にも会いたい
裏を返してみると、
愛情深い、情にあつい。
山も川も涸れはてさせた
それほど、ご神威が強い。
苦しみの中から、明るいものを見出されたのです。
苦しみに理解をすることで
思いやりの心も持たれたのです。
自らの使命も理解し受け入れられた須佐之男命さま。
もう、やんちゃの暴力だらけの少年神ではありませんでした。
そうなんです。
須佐之男命さまが、向かわれたのは、
あれほど希った妣上(ははうえ)のいる
「死の国」ではありませんでした。
―次回へ
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