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その困難に、意味はない。

「この世」のすべてを一度は斜に構えて見ないと気が済まないような、そんなひねくれ者の私にとって、神様という存在は、どうも信じ切れないものなのだ。――そのくせ、神社や寺で手を合わせたり、教会で祈ったり、そういうことはどさくさに紛れていくらでもする自分。
そういう「節操ない」行動も、どこか純粋に神や仏なるものを信じ切っていないということの表れなのだろうか。(――ホント私は、見る人から見れば
不遜不敬不純きわまりない人間なのでしょう。笑)

なので、「神様はその人が越えられない試練は与えない」だとか、折角の見事なそういう「信じたほうが精神的に落ち着くし良いのでは?」という提言すらも、あんまり信じ切れない。
それは「なぐさめの言葉」として、とても「上手」で「優れている」とは思うけれど、所詮、なぐさめはなぐさめに過ぎない、と、自分は思ってしまう。

と、なると、困難にぶつかった際、「その困難にも意味はある」なんていうふうにもまた、とてもじゃないが思えない。
「困難? んなもの要らねーよ!」
「何で自分に?ただの不公平じゃねーか!押し付けてくんなよ!」
「そんなのただの理不尽以外の何物でもないじゃねーか!」
等々と、ついつい叫んでしまうばかり。
……なのだけれども。


実は私、「ドケチ」なのである。
物でもモノ以外でも何でも、有形無形問わず、自分の手元に来たものを「無駄にする」ということが、どうも許せないのだ。

「その困難に、元々、意味なんかあってたまるかよ」とは思う。
が、しかし、
「それならその困難を、その上できたらなるべくそのほとんどの部分を、
後付けでもいいから、何か意味のあるものに、意地でも変えてやろう。
絶対、「学習教材」として、その困難を活用し尽くしてやるからな!

(つまり、)後々、経験として自分にとって意味あるものにしていくぞ!」
ともまた、同時に、思ってしまうのである。

ずぇ~~~ったい、ただ損するだけなんて、我慢ならないのである。
だから、神頼みではなく、自力で、そして自分の意思で、「意味」は、この手で掴み取りに行きたいのだ。

――てな具合に、ホント、歳とってますます、ドケチで意地汚い性格になって、自分、よかったね!
(人からは疎まれます。笑)


追記:
「あくまで一個人としては」、私はあまり「具体的な神様」――たとえば、
名前の付いた神様や人の形をかたどった神様のことは、元々そこまで信用していない、というだけである。
但し、「具体的な神様」を信じたくなる気持ちには、とても「共感」はできる。――何故「共感」できるのかと言えば、何かを信じることによって、救われたり、生きる道標を得たり、そういうことが、時にその人の人生を心強く時に豊かにするものになるであろうことは、私にも想像できるからだ。
なので信じている人を、もちろん、否定したりはまったくできないし、するつもりもない。

神様というものを、自分という一個人の思い込み――どうしたって入ってしまう――で、「私のような人間」ごときが、「解釈」してしまったり、勝手に定義したり特定のイメージにしてしまったり、それ自体が、もし本当に神みたいな存在がいるのだとしたら畏れ多い事だ……と、「ごく個人的感覚で」思えてしまって。
なので、「神みたいなもの」については、「自分個人の捉え方としては」、保留の状態のままで人生の最期までいきたい、というふうに私は考えています。(今のところは、です。)
もし、生きる意味であるとか、この世の摂理であるとか、そういうものが、「あるのならば」、――つまり「そんなものはどこにもなかった」という結論もあり得る状態にしていおきたいのであるが、――その答え合わせは、人生の最期までとっておきたい。
そのためには、いろいろな方々の言葉をお聞きし智慧をお借りしながらも、なるべく「何者かにただ導かれる」かたちではなく、自分の足で歩き、自分の手で触れ、自分の目で見て、自分自身の頭で考えて、時には一つ一つ疑いながら、この世に信じるものを見つけていきたい。

ということなので、
神様そのものとそれを信じる方々を否定する意図は、そもそもこの文章にはありません、念のため。
(この追記のほうが本文みたいに長くなってしまった。)


追記2:
むしろ、私は弱い人間なんだと思います。
具体的な神様を、もし自分の近くに感じていたら、全体重をそこにかけて寄りかかってしまい、で、もしそこに寄りかかれなくなったらその時たぶん、ポキッと折れてしまう気がするのです。
つまり、人一倍、もろい人間なんです。
この考え方は、「自分で自分を結果的にへし折ってしまわないため」なんです。