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健康な人の時間は元々足りなくなるようにできている

「やりたいと思うことすべて」は、
できないようにはじめからなっているのではないだろうか。

もし仮に「やりたいことすべて」が、今、できてしまったとして。
そうすると、人間というものは、
「次にやりたいこと」というものが、自動的に頭の中に、
途端に、またはそのうちに、
必ず発生してくるように元々なっているものなのではないだろうか?


で、もしかするとそうなるのは、
「人間としての心」が、健やかな証拠なのではないか?
つまり、心が心として機能していると、自ずとそうなるのではないか?

――と、最近ふと思ったのである。



ご存知の通り、生きとし生けるものにとって、時間は有限である。

まず仕事をし、
炊事洗濯掃除買い出し等々家事諸々やその他の雑事をこなし、
もちろん睡眠もとらなければならないし、
――と、差し引きしていけば、
一日のうちに自由に使える時間なんて、
残されているのは、意外とほんの僅かである。
しかし、そんな僅かな時間であるにもかかわらず、
その時間内にやりたいことは盛りだくさんなのだ。
で、あれもこれもと、詰め込みまくるのである。
――と、そんなふうに、
結局時間が足りなくて「やりたいことが順番待ち」なのって、
それだけでも結構、前向きで、明るくて、幸せなことかもしれないなあ?
心が元気じゃないと、逆に、なりたくてもそうなれないんじゃないかなあ?

……と、いうようなことを、最近ふと思った、というわけである。



そのように考えると、生きとし生けるそんな「我々」にとって、
「時間が足りない!」という感覚は、
健康に生きている限りつきものである、とも言えるのではないだろうか?
つまり、「時間が足りない!」という感覚には、
健康な人ならば「なって当然」と捉えられるのではないだろうか?

(いや、場合によっては「時間が足りない」となるのが、
具体的かつ理不尽な組織や誰かのせいかもしれなくて、
もしもそれが「健康的な生活にとって必要最低限」の時間すら
確保できない事案なのだとしたら、
まず根本的な問題改善が必須なのは間違いないとは思うのだ。
――が、しかし、そうではない場合の、
「生きていくのに必要最低限」以外の部分の時間について、)
「時間が足りない」と感じるのは、
その人の余っている時間の分量にお構いなく、
「やりたいと思うこと」のほうが次々と出てくるからそうなるわけで、
それならば、
「健やかに生きている限り、
人間は時間に対して不足を感じるようになっている。」
という元からの「そういう設定」だと
仮定したら、どうだろうか?と。
――いや、「そういうものだ」と「割り切ってしまう」ほうが、
慢性的な時間の足りなさについて、
無駄に慌てたり焦ったり苛立ったり不満に思わなくてすみそう
だなあ、
なんて、自分は思ったのである。


始めに戻るが。
「やりたいと思うことすべて」は、人間、
できないようにはじめからなっている(のかもしれない)。

それはつまり「生きている時間」を、
「もっとよこせ!」と言っているのに等しい。
――が、そうなってしまうのは、まったくもって、
人として健やかな感情なのだ、と捉えてみるのだ。

その反対に、
「生きている時間はもうこれ以上いらない、早く終わればいい」
「何もやりたくない!」「もうたくさん!」「まっぴらごめん!」
となってしまったら、どうだろう?と。
時間はどんどん有り余っていくかもしれない、が……。
どう考えても、それは精神的に「健やか」とは程遠い状態だろう。
だから、それとは真逆の方向へと――つまり、
「生きている時間を私にもっとよこせ!」へと、突き進んでいるほうが、
きっといいに違いない、と、私は今感じているのだ。
ならば、時間とはすなわち「いつも足りないもの」なのだと
始めから割り切ってしまおうかと、私は思った、と、こういう次第である。


但し、間違っても、足りないからと言って、
毎日繰り返して当たり前になっている時間、
睡眠とか、食事とか、その辺りの時間を、「節約」と称して
むやみやたらに削ったりはしないようにしたいものである。

そういうことをすると、長い目で見て
「(心身ともに)健康に生きている時間」そのものが削れてしまうし、
そうなると、自然な感情からの「やりたい!」すら
ただの「義務」ひいては「業務」に姿を変えてしまったりする。
それはどう考えても、本末転倒だと思うのである。


というわけで、
「もともと時間とは足りなくなるようにできている」と、あらかじめ
「開き直ってしまう」ようにしようと、つまり私は考えたのである。
そうしたほうが、「やりたいことが大混雑の順番待ち状態」だとしても、
精神的に落ち着いて、「自分らしい」ペースで安定できるからだ。


とにかくなるべく「楽しい」手応えを感じられる時間を増やしたいのだ。
どっちにしたって、(繰り返しになるけれど、)
生きとし生けるものにとって、時間は有限なのだから。