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近藤等則 いのちは即興だ


西麻布の交差点にホブソンズがあって、多くの人が好景気の雰囲気を感じ始めていた頃。あの辺りで美味しくお酒を飲んでいる近藤等則さんの姿をよく見かけました。トランペッター & One and Only。昔の記憶を呼び起こすことになります。

カフェバーという言葉が流行り出し、レッドシューズや328にYellowやらJ trip barでは業界の人が集まり、平日なのに長い列を作って入店するのを待っているのが日常的だった西麻布。浮かれた大人達を横目で見ながら私はデザイン会社で働き、MTVでVJをしてゲームのコラムを書いたり、飲めないのにお酒の場に顔を出したり、踊ったりして「世の中ちょろいなぁ」と調子にのっていました。

*これより在りし日のことに首を巡らします。ファンや関係者の皆様には独り合点している所があるかもしれません。長文になりますがどうかご容赦いただきたく思います。


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アートワーク・平山則廣


きっかけは平山則廣さん。IMAバンドのTokyo RoseのジャケットやChina Demonstrationのビデオ、近藤さんの曲が使われていたNHK 大河ドラマ・腕におぼえありのオープニング映像。制作をしていた(”前世の兄”と私が勝手にそう思っている)友人の縁で近藤さんと知り合います。あの頃の近藤さんはエレファントカシマシやDJ Krushと一緒に作品を作っていました。


打ち合わせ前日に現れた

KONDO IMA【Tokyo Rose】 のアルバムジャケット。約束した待ち合わせの前日に近藤さんはやって来て、急遽アルバムジャケットに決定。そして当時のマネージャーだったイギリス人に『映像が出来るのか?』と聞かれて【China Demonstration】を作ることになったのだとか。平山さんはヨーロッパツアーやニューヨークにも帯同。どんなにはっちゃめちゃだったのかを聞かせてくれました。

前知識として知っていたので平山さんの仕事場に近藤さんが現れると、世に類無い声で何やら話をしているし、息を切らしそうになって時どき笑っていて、側からすればそんな恐れ慄く対象を生まれてから見たことがないので「元気な大人は怖い」と意識していました。

20歳そこそこと世界を動き回るミュージシャン。共有するものゼロ。それでも天安門にチベット、武道に嘆きの壁やら70年代。マイルスにブコウスキーも話してくれました。はちゃめちゃにこの世の中を面白おかしく生きている、そんな風に当時の私の目には映ります。


(ほぼ)男しかいない...

そんな折にライブを見に行くことになり、渋谷公会堂があった向かい側のライブハウスで金曜日だったと思う。演奏を聞きに集まる人の年齢層が高めの男性ばかりで、見たことない光景に圧倒されたこと。頭を押さえつけられたような、音を浴びて犯されそうな揺さぶられた気持ちになり、ろくな挨拶もしないで帰った。

そんな礼儀のないことをしながらもスタジオにお邪魔したことがあります。機材だらけの金属質な空間は圧迫感でめまいがしそうで、視界をどこに落ち着かせればいいのか。分からないでいると自ら飲み物と茶菓子を出してくれた時のエピソード。

■ (黒い塊)
おっ、怪しいものが出てきた。


『いのちの源だ』

細かいことは忘れたけどそんな感じことを言っていたと思う。沖縄から持って来た黒糖。食べやすいように小さく砕いてくれて爪が黒くなって、夜もてっぺん超えているのに黒砂糖をつまんでいたら覚醒されてしまった。ああ。

スタジオは外の光が入ってこない秘密基地そのもので、そこで今までに嗅いだことのない匂いがしていました。聞くと見せてくれたのがほんのり赤くて太いお香。それまでお焼香をする時の粉っぽいもの、雑貨屋さんで売っている竹を小さく切ってそこにお香がついているものしか見たことがありません。だけど近藤さんが使っていたのはチベットの高僧から貰ったもの。100%お香だけだから不純物は燃やさないのだ、と。

チベット僧が着ている袈裟と同じ色のお香。帰り際に少し分けてくれて、高貴な贈り物をもらった気分にさせてくれました。

会うといつも必ず元気にしてくれる。それが近藤さんです。


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たけしさんのテレビ番組に近藤さんが出演することになり、前世の兄が呼ばれ、私も呼ばれて日本へ行くことになりました。近藤さんはアムステルダムで私はロンドンに住んでいて、同じタイミングに帰省。緑山のスタジオへ。

『もう終わった国だろう?』こっちの方に来ることないのか聞くとこう質問に答える。それをうけて『あまり脅かさないで』と英語で言い返すと、その後しばらく英語で話をする展開になってしまった。心が騒ぎ、はらはらされっぱなし。あの眼光の鋭さで言われるとなにも言えない。


何をするにもスケールがでかい、そしてポジティブ

Mt Fuji Aid、ダライラマ・聖なる音楽祭をしたり、イスラエルやマチュピチュ、日本の各地で地球を吹くプロジェクトや黒田征太郎さんとライブペインティング。音楽に国境はないとはよくいうけど、ジャンルなんて概念がなかった。だけど信念というか前衛芸術家としての姿、音楽を生業にしてない私にも背中で見せてくれていました。

初めてアムスに行くことになった時には馴染みのお寿司屋さんを教えてくれて、頼んでもいないものが出て来たこともあったしなあ。

絵に描いたような男様の振る舞い。沢山の人を巻き込んで、磁場がおかしくなっている真ん中にいるのが近藤さんでした。


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しばらく会っていなかった2018年2月。約1ヶ月の帰省中に富士山目の前にして吹くとのしらせ。やっさんのお家で何やら楽しそうなことが起こる予感。しかしそれは叶わなかった。どうしようもない。真剣勝負している時に邪魔しても悪いから逆にこれで良かったのかも。また今度として忘れよう。

そして令和2年。イギリスがロックダウンしている最中、近藤さんの息子さんと平山さんと3人で話をしていた時に私ひとりが「東京の空を聞いて元気をもらっている」と盛り上がり『もう一度野音で見たい』とお父さんに伝えてと不躾に言ったことがあった。

それからちょっとして近藤さんがTwitterで東京の空を紹介していて、欲するタイミングがぴったりだった。


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激しく荒れる13分


【東京の空】

デビュー時から知っていたのにきちんと聴いてこなかったことを大後悔したエレファントカシマシ。大打撃アルバム。

1994年の野音で東京の空を演奏する。
あの空。あの音。


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最高


どれもたった一度しかない宝のような瞬間なんだけど、94年はどう見ても異様な凄みがあった。開放された全員の演奏、あのいかれた感じが本当に好きで好きでたまらない。

近藤さんが薦めていたあの映像を見て気づいたことがあります。緑山で会った時に着ていた見覚えある服、あれと同じものを10年後の2004年の野音でも着ているのです。うっすり黒い服。懐かしいなぁ。


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たくさんのエネルギーを配っていたオヤジの背中


クリエティブに関して徹底的に完璧を求める格好良さ。命を削って演奏している時の晴れ姿。耳慣れない名前や聞かせてくれた哲学。こうして自分が海外で生活をしているのも、あの時に影響を受けたと言っても過言でなかったりします。心が強く受けた刺激と記憶。人生をそっとこれからも温めてくれる存在。
そう、これからもお世話になりそう。そんな気がしています。

近藤さんありがとう。


スーパー・メガ・うれしいです