見出し画像

相対的価値観のクソさ

東京に来てからつい口に出る言葉がある

それにしてもいちいち相対評価だな
アホくさ

僕が思う相対的価値観ってのは、他者が良いねしているものが自分にとって良いものという価値感だ。だから自分の良いものは他者に良いねしてもらわないと価値がなくなってしまう。こうして書いているだけでもイライラする。

今回の記事では相対的価値観がいかにクソおぶクソかを語っていきたいと思う。

相対的価値観のクソさ

1つは際限がないということ

他人が良いねするものはうつろいやすく、そして他人によっては良いねしているものが違ってくる。だから他人の良いねを自分の良いねにしようすると無駄に疲れる。昨日まで価値があったものが今日価値がなくなるかもしれないのだ。だから新しい良いとされるものが流行るとそれに乗っかる必要が出るのだ。

1つは他者を巻き込むということ

上でも書いているが、相対的価値観の場合、自分の良いねは定期的に他人に良いねしてもらわないと価値が出なくなる。ひと様に「はいはい、アナタのこれは価値がありますよ安心して下さい」と言ってもらわないといけないので迷惑をかけることになる。
恋人や配偶者、子供も被害にあう。恋人として他者から良いねされるものが価値になってしまい、配偶者として他者から良いねされるものが価値になってしまい、子供として他者から良いねされるものが価値になってしまう。
そして平気でその価値を正しいと思い込み強要するのだ。本当に恐ろしい。

1つは他者の目を気にするということ

他者の価値判断が自分の価値判断になってしまうので、むろん他者の目を気にして生きることになる。他者からどう思われているかで一生懸命悩み、傷つき、時には喜び時間を無駄に消費していく。
なんとも愚かしい。

1つは責任の所在があいまいになってしまうこと

相対的価値観のもとで失敗すると、誰かのせいにせずにはいられない。外部からの借り物の価値観なので当然責任は外部にあると本気で信じこむ。悪気はないからタチが悪い。
嘘だったのね!騙したのね!そんな人だと思わなった!人のせいにしないで頂戴!などなど

一応僕には今、嫁と息子がいて、不自由ない生活を送らせてもらっている。
キラキラとした生活を送っている人と比べたらなんとも地味な生活だとは思う。でも僕は僕の価値観を大事に、他人の良いねにはそこまで気にせず、絶対的価値観で生きていきたいと願っている。

※追記
とまぁさんざん相対的価値観をディスってきたが、悪い面ばかりではない。他者が望むものを察することはコミュニケーションでは必須であるからだ。
でも他者が望むものをそっくり自分の望むものにする必要はないということである。
あぁ 多分きっと 他者が望むものは何か を察することがコミュニケーションの円滑さにつながるから そのまま自分の価値観にしてしまっているのかな なんて今思った。

これから世界の価値観はきっとものすごい速さで変化していくと思う。だからこそ、不変となる自分だけの価値観を中心にすえる必要が出てくると僕は考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?