デンマークに来て日本人であることを誇りにおもった話
日本語でいうと「集合意識」になるのだろうか。デンマークの学校で、そういうことを学んでいる。平たくいうと「集合意識が変化すると、個人が意識していなくても、世の中がちょっと変化するよ」ってはなし。
怪しい、と思われるかもしれない。でも、わたしは鵜呑みにするタイプ。”産業革命時にはみんな「モノ」重視だったが、今は「心」に寄っている。これも「集合意識が変わっている」ことの一例だ”と聞いたら、すこしはハードルが下がるだろうか。
そして今日は「集合意識のなかにはご当地意識もある」というトピックに。ある生徒が「昨日おもしろい記事を読んだ」と手を挙げる。
そんな話を聞いて、とても誇らしく思った。わたしはなにもしていないし、もちろん、人によっては「アメリカめ!」と憎んでいる人もいるだろう。歴史を考えたら、おかしくないとおもう。わたしだってもしその時代に生きていたら、もし家族・友達が関わっていたら、毎日わら人形を作っていただろう。
「若者が歴史を知らないからであって、誰も許してはいない」と思うひともいるかもしれない。でも、日本を大きな視点で見ると、歴史を「忘れている」のではなく「前を向いている」ような気がするのは、わたしだけだろうか。日本国民を代表した手前味噌ながら、この記者の言うとおりだと思うのだ。
とにかく、100年もせずここまで「赦し」ているのは、日本人の集合意識が他国より高いから。そう言われて、とても日本人であることを鼻高々に聞いていた。高い集合意識を、もっともっと崇高なものにしていきたいと、僭越ながらおもった。
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この世の不条理を表す、目を覆いたくなる暗いニュースがあると「祈ることしかできない」と絶望する。友達も「中東の友達ができてから、祈りを捧げる神様もいなくて、どうしたらいいのだろうととまどう」と嘆いていた。
でも、本当に「集合意識がある」とするならば、「個人が変わることでしか、集合意識は変えられない」のではないだろうか。そう思うと、「祈り」も意味があると思えてくる。
ただ、祈っているだけでは物足りないのであれば、発信をしたらどうだろう。「個人の意識」からわかりやすく「集合意識」寄与していけそうだ。
そう思うと、noteで毎日発信することは、世界平和につながるのかもしれないね。
お返しの愛は無限大、一緒に幸せに貪欲になりましょうね!!