【大光明マンダラ】内なる意識・霊性(スピリチュアリティ)の探究の方向性
この瞑想する人noteでは「内なる意識(霊性)」の探究を謳っています。
まだまだ思索が全くもって不十分なのですが、今後の方向性について。
長文です。引用部分含めて13000文字超え、、、、。
とりあえず、今回のnoteで言いたいことは、
、ということです。
探究が良いものでありますように。
智慧と慈悲がありますように。
探究にはそもそも意味があるのか?
そもそも「内なる意識 霊性」なんてものは実体としてあるのでしょうか?その探究には何か意味があるのでしょうか?
そんなものは厨二病熱のたわ言、脳ミソの作り出した夢や幻であり、結局は虚無なのかもしれません。
無意味だとする可能性自体は実際にあると思います。
、、、というのが真理なのかもしれません。
三省堂 ことばのコラム:天道是か非か(司馬遷『史記』 伯夷列伝)
個人的衝動としての探究
霊性なるものの探究というのは空虚無意味なことなのかもしれませんが、それでも私が続けるのは、もうこれは持って生まれた衝動としか言いようがないです。
関連note:瞑想本能!?瞑想は本能だと思う!!
私の探求心は客観的な事実に立脚したものというものよりかは、信仰心に分類されるものかもしれません。
私のささやかな願いとしては、たとえ「霊性」なるものが夢、幻であろうとも、これに関する思想が人間社会の中で何らかの価値があってほしいとは思います。
たとえば「民主主義の思想」というのは「霊的な実相、霊的真理」ではありませんし、物理科学的な方法でその存在や正しさが証明されるというものではありません。
しょせん人間が作り出した「この世」的なものです。
しかし人間社会の営為のなかで、その価値が認められ、多くの人々の幸福に関係していて、文明に役立つものとされています。
それと同じように、人間の内には「霊性」と呼んでもよいものがあり、それが人間社会の営為において、もし「人間をより良い人間とし、社会をより良い社会にし、文明を創造する」ものなら、それが霊性の価値と考えたいです。
実際にこういったものがあるのかどうか分かりませんが。
私自身はモクシャとか、そういったワケの分からない宗教的境地には全然関心ないです。
密教の重視
この瞑想する人noteでは「生命エネルギー」に関する実践を密教としています。
この密教は、独特な体験があるなどで、今後も重視せざるを得ないです。
中国の気功では、特に内丹(仙道)が生命エネルギーの実践に該当します。
ヨガでは、古典『ハタ・ヨーガ・プラディーピカ』の中にムドラーなど特殊な行法が出てきますが、そういった実践(ハタ・ヨーガ)に該当します。
ヴィム・ホフ・メソッドにあるような特殊な呼吸法でクンダリーニを目覚めさせましょうなんてやっている人もいます。
チベット密教(後期密教、無上ヨーガタントラ)では、特に究竟次第(ゾクリム)の修行体系によく見られる「ツァ(脈管)、ルン(風)、ティクレ(心滴)」関連の実践が該当します。
気功でもヨガでもチベット仏教でも、生命エネルギーを利用する神秘的な奥深い実践は、独特な作用があり、修行者によって尊重されてきました。
ダライ・ラマの属するチベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパの自伝詩『トジェ・ドゥレマ』の一節です。
ちなみにですが、この『虹の階梯―チベット密教の瞑想修行』で主に触れられているのは、ニンマ派の「ゾクチェン(大究竟)」(ゾクチェン=アティヨーガ)です。
ただこの密教に関しては、いろいろと難しい厄介な問題が絡むことがあります。
ちなみに、宗教テロの大惨劇を引き起こしたカルト教団は、日本史上初の、現代先進国にあっては信じがたいほど大規模な、密教(後期密教、クンダリニー系ハタ・ヨーガ)の実践団体でした。
中沢新一氏および著書『虹の階梯』なども、かの教団の教祖、教義、信者達に影響を与えたということが巷では言われているようです。
これは『虹の階梯』にある詞章です。「発菩提心の瞑想」の時に唱えるそうです。
これとそっくりなものが、かの教団でも「大乗の発願の詞章」として用いられていました。
しかし、この「大乗の発願の詞章」が『虹の階梯』の直接の影響を受けたものかは、私は知りません。
またどの程度、中沢新一氏およびその著書がかの教団に影響を与えたのかも、私は詳しいことは分かりません。
話がそれました。
瞑想する人noteの方針としては、密教の体験や知識というのは霊性、愛他性、向社会性において導かれ解釈されるべきだとしています。
まぁ、難しい作業ではありますが。
関連note:オウムの軛 ―― 密教の懸念の一つ。
対象とする範囲。内なる霊性へ
人間が生命エネルギーの体験や超越的な体験、深い意識体験をするのは、それを可能とするような人間の意識ー神経生理システム、生物学的メカニズムが存在するからだと考えられます。
私の方針としては、その生物学的なメカニズムや体験、「霊性」との関連でのその解釈思索、こういったことの周辺の指摘にとどめたいです。
原則として神や霊魂、輪廻転生などといった超越的で客観的証明が全く不可能ことは、これらは個々人の信仰に関することであって、このnoteで断定的な指摘はしない方針です。
神との合一、梵我一如、真我独存、輪廻の苦しみからの解脱、、、、そういったことの探求心があるのなら、どうぞ各自お好きにして下さい、私は断定的な物言いで口出しはしませんよ、ということです。
私個人が超越的なものに対するなんらかの形態の信仰を持つようになり、その信仰告白みたいなことは、ひょっとするとあるかもしれませんが、、、あくまで個人的心情の吐露であって、こういった信仰めいたものは個々人の選択にとどめるつもりです。
しかし大原則としては個々人は自らの内を見るべき、「内なる意識、霊性」に向き合うべきであるとは指摘していこうと思っています。
外なる神、外なる宗教、外なる信仰ではなくて、自らの内を見るべきであるという方針です。
さらに、このような霊性、霊性の探究は「善」「良心」「良識」「人間をより良い人間とし、社会をより良い社会にし、文明を創造する」といったものと結び付くべきであるという願望、方針を持っています。
関連note:「内なる意識」の信仰。内なる霊性
光明の大マンダラ――「内なる霊性」と「大いなる(一なる)もの」もしくは「空性、縁起、智慧、慈悲」
これは、今のところ何の根拠も提示できない私の気まぐれな思いつきなのですが、自らの「内なる意識、内なる霊性」というのは、他の存在との関係性が含まれるのかもしれません。
自らの霊性に向き合うというのは、そもそも、自分以外の他の存在との関係性にも向き合うということに、自然と通じるのかもしれません。
これは思想的にそう言っているのではなくて、また、そうであるべきだと理想論を言っているのでもなくて、そのように生物学的に、意識ー神経生理のメカニズムとしてセッティングされているのかもしれません。
非常に妄想めいたものに聞こえますね。
しかし、そもそも人間というのは、この地球上であれ存在する以上は、他の存在との関わりがあるわけです。人類発祥してから、否、それ以前からずっとそうなわけです。
なので生物の進化の過程で、人間の意識ー神経生理において、生物学的に、遺伝子レベル的に、意識・識閾下領域においても、他の存在との関係性が重要なものとしてセッティングされるようになったという主張は、突拍子もないものではないと思います。
例えば「他者との精神的なつながりのある関係や、他人に親切にすることは、遺伝子レベルでも健康に良い」なんていう主張もあります。
これは「人間というのは、畢竟、生存するために他者との良好な関係が必要であり、それが遺伝子レベルでプログラムされているからだ」などと言われているようです。
参考:パレオな男 アラフォー男がアンチエイジングについて考えるブログ
ブログ内検索「親切」↓↓
他人に「親切」にするとホルモンバランスが整って長生きできるぞ!みたいな話
ひょっとすると「他の存在との関係性が重要である」というのが、生物学的にも、識閾下領域においても、人間には組み込まれていることもあるのではないでしょうか。
たとえば数多くの存在がひしめくこの世界で、他者のみならず自分自身の存在を肯定するようなものとして、識閾下において組み込まれているなどです。
もしそうならば瞑想などによって日常的な意識が後退して自らの意識の内、内なる霊性に向かうような時に、意識体験として発揮され経験されるということがあるのかもしれません。
たとえ明確な神秘体験、幻覚体験などがなくても、意識や心理の傾向に影響があるという考え方もできるでしょう。
このような意識体験は大いなるもの、一なるもの、ワンネスといったものだったり、もしくは、「空性、縁起、慈悲、四無量心」といったものに通じる体験なのかもしれません。
意識(光明)のマンダラとも表現できるのかもしれません。
内なる意識(霊性)に向かう(自利)というのは、他の存在との関係性、愛他性、慈悲に向かう(利他)に自然と通じるメカニズムがあるものなのかもしれません。
もちろん歴史を振り返れば分かるように、瞑想の実践者達を見ればわかるように、瞑想すればみんなが自然に愛他的になったり、慈悲深くなったりというわけではないでしょう。
瞑想実践の度合い、体験の解釈、個人の持って生まれた性格、気性、それに心がけ、人生観、思想、信条、信仰、、、などが関係するだろうと考えることができます。
生物学的な個体差もありえると思われます。
関連note:顕教について
【備考】神経学的考察など
備考として読んだ書籍にあった気になった文章をのせておきます。
以下紹介する書籍は宗教、スピリチュアリティ、信仰に対して、かなり好意的な姿勢ではあります。
参考:リチャード・デイヴィッドソン(デビッドソン、Richard J. Davidson)の研究↓↓
Gigazineの記事『6万2000時間以上瞑想を行ってきたハイレベルな瞑想家の脳内では何が起きているのか?』
『日経サイエンス 2015年1月号 特集:瞑想する脳 瞑想の脳科学』
【備考】宗教的体験
ウィリアム・ジェイムズによる宗教心理学の名著『宗教的経験の諸相』(桝田啓三郎 訳 岩波書店)より。孫引きになりますが。
Wikipedia:ウィリアム・ジェームズ
カナダの精神科医リチャード・モーリス・バック博士の体験に触れられています。
バック博士の著書『Cosmic Consciousness』(1901年)は欧米の宗教、スピ、ニューエイジ、新興心理学、トンデモなどの界隈ではかなり有名なもののようです。
20年くらい前に邦訳が出たようです。(『宇宙意識』尾本憲昭 訳 ナチュラルスピリット)
「宇宙的意識」について。
バック博士自身にもその宇宙的意識の体験があったようです。
友人達と詩を読んだり哲学談義をした後に別れて、一人になり心穏やかな状態で、精神の働きに受動的だった時に体験したようです。
その記述です。
【備考】臨死体験
今まで述べてきたことは、ひょっとすると臨死体験者、特に欧米キリスト教圏の臨死体験者の意識体験にも関係するかもしれません。
臨死体験の内容は類似・共通することが多く、「体外離脱体験 Out of Body Experience(OBE)」「走馬灯のような人生回顧(ライフ・レビュー)」「普遍的な(無条件の)愛にあふれた光の存在に出会った」「ワンネスを体験した」といったものがよく見られます。
体験者の証言などを書籍『臨死体験 9つの証拠』(ジェフリー・ロング, ポール・ペリー 著 矢作 直樹 解説 河村 めぐみ 訳 ブックマン社 2014)から。
臨死体験の影響も共通したものが見られます。
体験によってスピリチュアルな思想を抱くようになる人も多いようです。「ワンネス」といったものを連想するものがよくみられます。
以下はある体験者の証言。
余談ですが、「神、霊魂」「死後の生」といった霊的なことがらに懐疑的な科学者の中には、自ら臨死体験を調査する内に、スピリチュアルな信仰を持つようになる人が結構いるようです。
界隈の中で、その最も有名な人物は、著書『かいまみた死後の世界』のレイモンド・ムーディ博士でしょう。
書籍『死ぬ瞬間』の著者の精神科医で、これまた有名なエリザベス・キューブラー=ロスとともに臨死体験の調査・研究もしていました。
ムーディ博士はもともとは、“超常現象、超能力、心霊現象といったようなものは、信じないという立場” だったようです。(立花 隆 著『臨死体験 下』文藝春秋, 2000, p.14)
しかし心境の変化があったようです。
立花隆氏のインタビューでムーディ博士は次のように語りました。
【備考】非利己的な愛、愛他性、利他心、慈悲、四無量心、、、
「よくわかんないけど愛他性は瞑想の実践や霊性というものに重要なのではないかなぁ」という気まぐれな思いつきがあったので、それについてこの瞑想する人noteで触れたことがあります。
瞑想する人は仁者たれ?慈悲深くあれ?愛他性(利他性)や慈悲の瞑想(トンレン)の実践
述べてきたように自らの内なる霊性に向き合うというのが、他者との関係性にも向き合うことにもつながるのかもしれません。
そしてそれは自己超越といったものにも関係があるのかもしれません。
もしそうなら、ここにおいて愛他性が注目されるべきなのかもしれません。
愛、愛他性というのは、自己だけでなくて、他者の存在をも肯定的に気にかけることであって、こういった点で自己超越性が含まれるのかもしれません。
ここでの愛、愛他性といったものは、エゴのない、非利己的ものだと考えられます。
エゴの要素が強い分だけ、自己超越性に矛盾すると考えられるからです。
宗教体験者や臨死体験者がしばしば、「圧倒的な包み込むような愛」「普遍的な(universal 、unconditional)愛」を感じた、と似たような主張するのは、その時に自己超越性に関する感情、意識を体験したからなのかもしれません。
【備考】仏教の瞑想修行者の選択 ――阿羅漢ではなく大乗の菩薩の道を選ぶ
山下良道氏(住職。坐禅、瞑想の指導者。鎌倉一法庵,One Dharma Forum,ワンダルマの会)の書籍『光の中のマインドフルネス』(サンガ)より。
Wikipedia:山下良道
この法話ではコンスピリチュアリティのカルトに触れられています。
さて、『光の中のマインドフルネス』(サンガ)からです。
山下良道氏はミャンマーのパオ森林僧院(僧院長:パオ・セヤドー)で修行をしていた時に、あるマレーシア出身の若い比丘(男性修行者、僧侶)に出会いました。
その彼は瞑想の天才だったそうです。
彼はどんどんと瞑想の境地が進んでいくのですが、ある時、「自らの悟り得て阿羅漢になる」という道を変更して、大乗の菩薩の道を歩もうと決意し、チベットの流れで大乗仏教の修行に向かったそうです。
山下良道氏はその時は、彼の選択に違和感を覚えたようです。
物質性(この世的なもの)を超えた霊的な実在を認める場合でも
しばしば述べてきましたが、この瞑想する人noteでは「霊性(霊的、スピリチュアリティ、スピリチュアルなど)」の話題においても、「神」「霊魂」「霊界」「輪廻転生」「超能力(霊的能力)」などといった物質を超えた超越的なものは扱えません。
現時点では、物理的・科学的な限界を超えたものであり、手には負えません。
そーいったのはどーぞ各人勝手に思索するなり信仰するなりして下さいということです。
ただし、霊性というものに関しては、「自らの内を見るべきである」「自らの内なる霊性に向き合うべきである」という意義は込めていくつもりです。
この「内なる霊性に向き合う」というのは、この世的なものを超越した実在とやらを探究する際にも役立つものだと思われます。
物質、この世的なもの以外に超越的実在を認め、そして、宗教者、神秘家、スピ系さん達が言うように、そのようなものを認知したり接触したりすることがあるとしてみましょう。
では、物質的世界で物質的肉体を持って暮らす人間と、そのような超越的実在とはどうやって接触するのでしょうか?
接触点はどこにあるのでしょうか?
接触点を考える点でも、それは人間の内、人間の意識ー脳・神経生理体系の内に注目すべきであり、それに霊性(スピリチュアリティ)が関係するだろうという思索は提案できます。
超越的実在を認める場合でも、「内なる霊性に向かうべき」という方針は重視できます。