【翻訳】『ティール組織』著者フレデリック・ラルー氏 なぜエコヴィレッジに移住?その理由とは
※注意:当記事は『ティール組織』ではなく、著者に関するものです。
はじめに
『ティール組織 -マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』(著 フレデリック・ラルー、訳 鈴木立哉、解説 嘉村賢州)が日本で出版されてから、5年ほどが経つ。「ティール」という言葉は、多くのビジネスパーソンに広まった。本書で提唱されたティールとは「変化の時代に適応し、自律的に進化していく組織モデル」のこと。
では、そんな『ティール組織』著者フレデリック・ラルーさんって、今どこで何をしているのだろうか?
結論から言うと、現在はアメリカのニューヨーク州イサカにあるエコヴィレッジに家族と共に住んでいるらしい。
今回は、どこに住んでいて、なぜそこにいるかを明らかにしてみた。
※そこで何をしているかに関してはこちらの記事を読んでほしい
エコヴィレッジとは?
エコヴィレッジ(EcoVillage)は、持続可能な生活を重視し、共同体や地域社会の中で協力し合って環境に配慮した生活を営む住宅地やコミュニティのことを指す。エコヴィレッジは、以下の特徴を持つことが一般的だ:
持続可能性: エコヴィレッジは環境への影響を最小限に抑え、自然資源を節約するよう設計されています。再生可能エネルギーや廃棄物リサイクルなどの持続可能な実践が一般的だ。
共同生活: 住民は共同体として協力し、持続可能な方法で生活する。共同で食事を作り、庭園を管理し、エネルギーや資源を共有することが一般的だ。
社会的つながり: エコヴィレッジは、社会的なつながりやコミュニティ参加を奨励する。住民は協力し、助け合い、共感し合いながら生活する。
自給自足: 多くのエコヴィレッジは、食品やエネルギーの一部を自給自足で生産し、地元の資源を活用する。これにより、持続可能な生活を実現しようとする。
環境教育: エコヴィレッジはしばしば環境教育の場として機能し、持続可能な生活スタイルや環境に関する教育プログラムを提供することがある。
エコヴィレッジは、持続可能な未来を築くための実験的な場所であり、地域社会や国際的なネットワークを通じて情報を共有し、持続可能な生活のベストプラクティスを普及させる役割を果たしている。それぞれのエコヴィレッジは異なるアプローチを取ることがあり、文化や地域に合わせた独自の特徴を持っている。
でもなぜ??
本人がワケを書いた記事が既にあったので、今回はそれを全て翻訳してみた。それではさっそくみていこう!
本文
私たちはコミュニティで子育てするようにできている
西洋ではこの100年間、壮大な実験が繰り広げられてきた。何千年もの間、人類は家族、社会階級、信仰、仕事など、より広範な共同生活の網の目の中に深く組み込まれていた。しかしその後、私たちは共同体を捨て、核家族を生活の容器として受け入れた。核家族という小さく孤立した構造によって、大家族の要求やお節介な隣人、社会的な同調圧力に邪魔されることなく、自分たちが本当に望む人生を切り開くことができると信じていたのだ。
20世紀に入ると、農村に住む人々が仕事を求めて混雑した都市に押し寄せ、集団の要求は個人の解放に道を譲った。20世紀半ばになると、戦後経済が新たな脱出を可能にし、郊外での生活が新たな理想となった。都市化した人々は、広大な緑の芝生に移り住み、そこでの素晴らしい孤立が現代生活の新たな夢となった。
最近では、活気あるカフェやクールなカルチャーセンター、アプリで評価できるレストランがあるヒップな都心が、住むのに最適な場所として私たちの想像力をかきたてている。特に若い世代は、都会に戻ってきている。家賃は高騰し、アパートはますます狭くなっているにもかかわらず、こうした場所はアイデンティティを試したり、仲間を探したり、最終的には人生のパートナーを探したりするのに最適な場所なのだ。そして、おそらく2人が出会い、落ち着き、親になるまでは。
都会であろうと郊外であろうと、私たちはコミュニティの支えなしに核家族で子供を育てるようにはできていないと私は思う。私たちは単純に、そのようにはできていないのだ。コミュニティなしで家族を育てることは、私たち全員にとって子育ての負担を飛躍的に大きくする。
コミュニティの再発明
年前、妻のエレーヌと当時6歳と2歳だった子供たち、そして私は大胆な行動に出た。ベルギーでの生活を箱詰めし、荷物をコンテナに入れてゆっくりと海を飛び越えた。国だけでなく、暮らし方も変えた。私たちはにぎやかな都市を離れ、ニューヨーク州北部のイサカにあるエコビレッジに参加した。今ではなだらかな丘や池、森、トレイルが見渡せる。村の土地には有機農場があり、私たちを養ってくれている。隣人たちは友人となり、家族の一員となった。そして周りには子供たちと遊び場がある。
私たちはブリュッセルでの生活を愛していたが、何か違和感を感じ始めていた。周りのみんなと同じように、「家」は家の4つの壁の中に限られていた。外では近所の人たちと挨拶を交わすが、彼らのことはほとんど知らない。自給自足が前提で、必要なものはすべて自分たちで所有しなければならなかった。隣人にドリルを貸してくれと頼むのは気まずすぎる。スーパーマーケットに行かなくてすむようにバターを買ってきたり。修理が必要なものがあれば、修理のために人を雇わなければならなかった。子供たちが友達と遊びたがれば、友達の親に電話したり、「木曜日はどう?木曜日はどう?6時に連れて帰るから、4時に送ってくれる?」
より有意義な人間関係、真のコミュニティへの憧れが芽生え始めた。もっと自然に近い生活がしたい。より少ない消費。地球を少しでも軽くするために。
これらの理由から、イサカのエコビレッジに引っ越したのはひらめいた決断だった。引っ越してから3ヵ月後、私たちは行政上の理由でブリュッセルに戻らなければならなかった。ここでの生活は、すべてが緊迫し、複雑に感じられる。あっという間に、私たちの新しい生活はしっくりきた。
引っ越し前にこの村に滞在したときから、ここで暮らすことは子供たちにとってかけがえのない贈り物になるとわかっていた。村の入り口には車が止められるので、子供たちは何百エーカーもの牧草地や森を安全かつ自由に歩き回ることができる。夏には泳ぎ、冬にはスケートができる池が2つあり、屋外と屋内に遊び場がいくつもある。以前の生活では、子供たちの世界は私たちの家の大きさほどしかなかった。今は何百エーカーにも広がっている。ここの子供たちはまさに「放し飼いの子供」だ。
スペース以上に重要なのは、他の子どもたちと愛情深い大人たちの存在である。ここの子供たちは自主性に恵まれており、友達の家に駆け寄って遊んだり、夕食の時間になると自発的に泊まりに誘われたりする。私は、子供たちの友達(いや、子供たちも私の友達なのだが!)が夕食に泊まるとき、一皿か二皿を追加したり、子供たちが企画したお泊まり会にマットレスを追加したりするのが大好きだ。子供たちはなんて幸せなんだろう!
だから、私たちは子供たちに素晴らしい人生を提供することになるとわかっていた。しかし、私たちがまったく予想しなかった密接な関係があった。親になるのは大変なことだ。もちろん、いつもというわけではない。子どもたちを見て、胸が張り裂けそうになることもある。子どもたちのいない人生など、想像もできない。しかし、研究によれば、一生のうち、子育て期には幸福度が著しく低下し、ストレスと疲労がピークに達する。
私が発見したのは、その緊張の多くは自分自身が招いたものだということだ。個人化された生活、核家族という近代的存在の基盤という夢は、楽しい子育てを助長するものではない。何十万年もの間、子どもたちは多世代の家族構造の中で育てられてきた。祖父母、叔母、叔父、いとこ、隣人、その他部族やコミュニティのメンバーが子どもたちを見守り、交流した。すべてが親に依存していたわけではない!ことわざにもあるように、"村が必要 "なのだ。親も子も、現代の孤立の代償を払っているのだ。大人にも子供にも見られるようになったストレス、うつ病、実存的不安のどれだけが、この孤立と関係しているのだろうか?
解決策は、時計の針を戻して過去の共同体の形を再構築することではないと私は確信している。親戚や隣人、教会に通う仲間から常に監視され、判断されながら暮らしたいと思う人がいるだろうか?エコビレッジや共同住宅、インテンショナル・コミュニティのほうが、プライバシーとコミュニティを求める私たちのニーズに合っている。私たちのエコビレッジでは、自分たちの家を持っていて、他の家族と同じようにプライバシーを十分に楽しんでいる。しかし、必要なときには、愛にあふれたコミュニティがすぐ目の前にある。私たちは望むだけ、あるいは望むだけコミュニティと関わることができる。ここの人々はかなり多様ですが、私たちは互いの違いを尊重し、特定の型にはまるプレッシャーを感じない。
コミュニティが変える子育て
意図的な共同体を通して、子育てはどのように変わるのか?私が学んだことをいくつか挙げてみよう。子どもたちが歩き回ったり友達を探したりする自主性を新たに得たことは、私たち親が求める最大の贅沢、つまり自由な時間を増やすことにつながる!子どもたちがどこにいるのかよくわからないことがよくあるが、私たちはそのことに大きな喜びを感じている(夕食や就寝時間まではそうだ!)。子どもたちは安全で、どこかで楽しんでいる。時には、子どもたちの自主性が私たちの睡眠時間を増やすことさえある。昨年の冬、私たち夫婦は6歳の息子が2時間も起きているのを発見して目を覚ました。息子は私たちを起こすどころか、上半身裸で雪山探検に出かけていったのだ。より大きな自主性は、子供たちの深いニーズに応えるものだ。そして少年よ、それは私たちにとっても恵みなのだ。
自由な時間が増えるという話題のついでに、毎週3回ある共通の夕食のことを話したっけ?近所の人たちがボランティアで定期的に食事を作ってくれて、みんなが招待される。特に若い親としては、毎晩の料理から解放されるのは贅沢なことだ!たいていの週は、1週間に2回か3回はこういった食事会に参加するのですが、時には、私たち4人は単に家で寄り添いたいだけなので、1週間か2週間は共通の食事会に参加しないこともあります。それ以外の時は、メニューによる。
自然の穏やかな影響は、私たち親にとってもうひとつの恩恵である。家の中の物事が激しくなったとき、子供たちの間で意見の相違が生じたとき、あるいは騒音レベルで私たちが嫌な親になりそうになったとき、私たちは子供たちに「散歩に行こう」と言う。子供たちがすでにパジャマを着ている就寝直前のこともある。ドアを閉めて、自然の静けさに包まれる。
もはやエンターテイナーでもロールモデルでもない
ここでの生活が始まって数週間が経った頃、私たちは週末の予定を立てるのをやめていることに気づいた。都会に住んでいた頃は、計画を立てなければならなかった。子供たちが家から出ないと、私たちみんながおかしくなってしまうような時期がいつも来ていた。公園に行く?美術館?友達と遊ぶ約束でもする?でもここでは、いつも何かが起きている。ブルーベリーを摘んだり、アップルサイダーを搾ったり。池で泳いだり、冬には凍った池でほうき玉をしたり。近所の人が新しいペットを飼い始めた!あるいは、おじいちゃんが望遠鏡を出し、子供たちが列を作って月を眺める。子供たちを楽しませなければならないというプレッシャーは、もはや私たちだけの肩にかかっているのではない。
私たちの子供たちがこのコミュニティの思いやりの網の目の中で成長するにつれ、もはや母親と私だけが彼らの模範でありインスピレーションを与える存在ではなくなり、微妙な安堵感をもたらしている。エコビレッジでは、人々は実にさまざまな才能や関心を持っている。エレーヌと私は音楽家ではないが、4歳になる娘には音楽の傾向があると感じている。チェロを弾くリジーと過ごすか、ギタリストでありヴァイオリニスト、そしてツアー中のソングライターでもあるジョーと過ごすか。それともピアノを弾くキャサリンやロバートと過ごすのだろうか?村のキューバン・ドラム・グループや合唱団の練習に耳を傾けるかもしれない。そして彼女と弟が10代に成長したとき、彼らが築いた絆はきっと役に立つだろう。この村で10代の子供たちを育てた親たちは、時に内気で不器用な10代の子供たちが、話し相手や共感し合える大人がいることの素晴らしさを語る。
最近、私たちのエコビレッジで育ったたくましく背の高い18歳のイーサンが、大学から帰省した。近所の60代のフェベと一緒に歩いていたのだが、彼女はイーサンを子供の頃から知っている。ここでの多くの大人と子ども同様、ふたりは特別な絆で結ばれている。フィービを見たイーサンは、満面の笑みを浮かべて走り出した。彼女の腕の中に身を投げた。その光景を目の当たりにして、私は深く感動し、目に涙を浮かべた。若い男が走って大人の腕に身を投げ出して抱きつくのを見たのは初めてだった。両親や祖父母からだけでなく、より広いコミュニティからも愛されていた子供がここにいた。そしてここには、自分の子供だけでなく、この少年も--そしておそらく地域の他の数人も--愛することができる場所にいることに恵まれた女性がいた。
地域社会と非暴力の子育て
多くの人々がそうであるように、エレーヌと私は、罰や報酬、脅しや約束なしに子供を育てようとしている。これは非暴力的子育てと呼ばれることもある。私たちは、子どもたちが自分のニーズを表現できるように助け、私たち自身のニーズを子どもたちと共有し、みんなのためになる決断を一緒にするよう努めている。
たいていの場合、これは見事に機能している。私たちの子供たちは2人とも非常に意志が強く、しかも多くの大人が驚くような共感能力と協調性を身につけている。しかしまだ4歳と7歳である。彼らの欲求がすべてを飲み込んでしまう瞬間がある。何が何でも自分の欲しいものを手に入れたいと主張し、それを実現するために怒鳴ったり、泣いたり、時には叩いたりすることもある。より伝統的な子育てでは、脅しや罰の武器を持ち出すところだ。
最近、友人であり、非暴力コミュニケーションとファシリテーションの世界の第一人者であるミキ・カシュタンとこのことについて話した。私は彼女に、そのような瞬間に行き詰まりを感じることがあると説明した。何千年もの間、親が使ってきた武器、つまり脅すことによって子供を従わせ、私の望むことをさせるという武器を、私は手放したのだ。そして、そのことを嬉しく思っている。とはいえ、私のニーズ(たとえば、静かにしてほしいというニーズ)が無視される一方で、子どもたちが自分のニーズは満たされると声高に主張するような場所で、子どもたちが身動きが取れなくなると、私はイライラすることがある。そのようなとき、私は迷いを感じることがある。
ミキの答えは私の心に残る。彼女は言った。「あなたは間違った文脈で問題を解決しようとしている。核家族の中では解決できない。コミュニティーの中でしか解決できないのよ」と。
もちろん、彼女は正しい!幼い子どもたちに、常にみんなのニーズを満たすための問題解決に携わることを求めるのは無理がある。子どもたちが自分のニーズを理解し、それを表現するのは大変なことだし(つまり、私たち大人にとっても大変なことなのだ!)、時には子どもたちが圧倒されすぎて、私たちのニーズに耳を傾けることができないこともある。そのようなとき、私たちの最大の武器となるのは、他者のサポートである。私たちはこう言わなければならない:「私は自分の人生を生きるために一歩踏み出したいです。だから、代わりに(子守りを)お願いできますか?」
非暴力的な方法で、自分自身を疲弊させることなく子育てをする唯一の方法は、コミュニティという文脈の中にある。ミキがこのことをはっきりと教えてくれたので、私は近所の家のドアを頻繁にノックするようになった。15分でも、1時間でも、午後でも!そして、今度必要なときには、喜んでそうしてあげよう。
バラ色に写りすぎている?
共同体での子育ての欠点は何だろうか?今の段階では、私がとてもバラ色の絵を描いているように聞こえるかもしれない。エコビレッジで先に親になった年長者に質問すると、ひとつの欠点がよく言われる。近くに住んでいると、子どもたちはさまざまな子育てスタイルやルールにさらされる。私たちの子供たちは、しばしば難しい質問をして帰ってくる「もう寝る時間なのに、どうしてジュリーは外で遊んでいられるの?フリンは見ていいし、遊んでいいから、僕は××の映画を見たり、××のビデオゲームをしていい?」
地域社会では、伝統的な環境以上に、子供たちは私たちに子育ての正当性を、時には再考を迫ってくる。「私がそう言うから!」というのは、ここでは難しい一線だろう!
過去には、考え方の違いや選択の違いから、両親の間に緊張が走ったケースもあった。ありがたいことに、私たちはスタイルの違いを優雅に乗り越えているようだ。しかし、私たちの子供たちはまだ幼く、10代になる頃には、私たちが一緒に直面する問題は大きくなっていくだろう。
もし、その友人がベストな影響力を持っていないと感じたら?それが学校の友人ではなく、地域に住む友人であれば、物事は簡単でもあり、厄介でもある。私たちは物事を直接目撃することができ、その力学に参加し、それを形成する力をより強く持つことができるが、その子の両親も私たちの隣人であり、おそらく私たちの友人であろう。
コミュニティという状況を共有することで、潜在的な問題を解決し、会話に深く飛び込み、尊重し合いながらコミュニケーションを続けることができる。有意義な会話を分かち合い、人間関係の美しさと時には厄介さから逃げないことだ。
当たり前の再発見
人類史の99%において、子どもは共同体の中で育ったと人類学者は語っている。現存する狩猟採集社会から、大人は子どもを "育てる "必要があるなどとは考えていないことがわかっている。これらの文化では、子どもたちは部族の他の子どもたちとの遊びや、大人の真似をしたり、大人と交流したりすることを通して、身体的、社会的、感情的なあらゆる必須スキルを学んでいく。子どもたちは現代の子どもたちよりもずっと自律的で、年齢が混ざった集団の中で一日中遊び、学ぶ。大人が必要なときは、誰にでも助けを求める。彼らの資源は両親だけではないのだ。[1]
このことは知っていたものの、私はそれを古い歴史だと信じていた。私たちがまだこのように深く配線されていることを理解するには、協力的なコミュニティで生活する必要があった。孤立した核家族で暮らそうとしても、代償は大きい。仲間と一緒に歩き回り、遊び、学ぶ自主性を否定された子どもたちは、落ち着きを失い、不安が増大する。背負うはずのない重荷を背負わされた親は、ストレスと圧倒感に支配される。
一世紀前、人々は束縛的で息苦しく感じるコミュニティを拒否し始め、より個人主義的なライフスタイルの自由を熱望した。良いニュースは、私たちが選択可能なコミュニティを再構築しつつあるということだ。エコビレッジや共同住宅、意図的なコミュニティづくりの動きが世界中で活発化している。その多くは、自治と共同体という両方の長所を兼ね備えている。プライバシーと自由。有意義で豊かなコミュニティの中で、どこまでも自分自身を表現する自由。特に若い親たちにとって、この組み合わせは、歴史上この時期、ほとんど抗しがたいものであり、おそらく深く必要なものであると私は信じている。
どうだろう?もしコミュニティで子育てをするという考えに共感していただけたなら、ぜひエコビレッジや共同住宅を訪ねてみてほしい。ニューヨーク州イサカの近くにある私たちのエコビレッジでは、毎月一般向けのツアーを開催しており、簡単な説明を受けることができる。また、村の民宿に数日間滞在して、その場所を感じ、自分に合うかどうかを確認することもできます。定期的に貸家や売家が出るので、新しい家族を迎えるのはいつもわくわくします。村の創設者たちの子供たちの多くが成長し、現在は新しい親世代を迎えている。
私の経験では、あなたとあなたの家族にとって何がベストかをよりよく理解するために、いくつかの異なる場所を訪れるのがベストだと思う。いろいろな色や味がある。私は、あなたが幸せな探索をすることを祈っています。そして、あなた自身も感謝することになるだろう!私たち夫婦が楽しく発見したように、親になるにはもっと簡単で充実した方法があるのだ。
[1] 私はピーター・グレイの著書『Free to Learn』を強く推薦する。狩猟社会と採集社会における子ども時代について学ぶことは、家庭や学校での子育てについて私たちがどのように考えるかについて、力強く、時に不穏な問いを投げかけてくる。
追伸
英国の『デイリー・メール』紙に掲載されたこの記事は、ある家族の中で、8歳の子どもの世界が4世代にわたって徐々に、そして大幅に狭められていく様子を追ったものである。各世代が歩き回れる範囲の広さを示した地図が特に印象的だ。
おわりに
いかがだったろうか?
正直、フレデリックさんの見解と文章力の美しさに、ぼくは驚かされた。なぜなら、人間として大切にしたいことを、平坦な言い方で表現できるのだから。
今回の記事でエコヴィレッジに興味が出てきた人もいるのではないだろうか?
エコヴィレッジは世界中にあるようだが、今はまだ欧米に多いようだ。だがいずれ、日本にも徐々に増えてくるかもしれない。
ぼくもフレデリックさんの書いてあるように、別にエコヴィレッジに住むことが正しいとは思っていない。
さすがに若い頃は、都会の方が新しい人間関係やビジネスを構築するのに役立つだろう。
だが、子育てするフェーズになると、都会だけでは厳しくなる。
エコヴィレッジはそんなタイミングで役立つ暮らしのコミュニティなのだろう。
今回の記事は、以上だ。
ぼくも子育てする時期にはエコヴィレッジに住んでみたいものだ。
ではまた!
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