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こころの中の幸せ

人には記憶がある。
その記憶には大きく分けて2つの記憶がある。それは、幸せな記憶と不幸な記憶。

人は活きているといろんな出来事が起きる。その出来事ひとつ一つを記憶したり、大した事がなければ忘れられる。

ある意味、忘れられる程の出来事は幸せと云えたりもする。人が残す記憶には、幸せか不幸かの記憶となり心に残らせる。

何故、記憶するのか。
それは、経験として残したり、想い出として残したりするが、時によって次の出来事に影響する記憶として残してしまうことがある。

いずれにしてもその記憶は幸せか不幸かに分かれ記憶され、時にその記憶を他の出来事により引き出してしまう。

その記憶が幸せな記憶なら良いが、不幸な記憶を引き出すと感情が感情を湧かし、心に負担をかけてしまう。

人は心を病(やま)すことがある。
それは治りにくくジュクジュクした厄介なことだ。

そんな病にも効くことがある。
それは記憶。

「病は気から」でもあるが、その”気”の使い方を自分たちは心を知らないから分からない。

人は心を病している人に「がんばれ」と励ましてしまうことがあるが、当人が心を知らなければどう心を頑張らせばいいか分からなくさせる。悩みを与えることになる。

本人が良かれと思ってのことではあるが、その言葉をどう受け止めるかは当人しだいとなる。

話が打線してしまったが、そんな病に効くことがある。それも”気”と関係することで記憶が効く。

記憶は人のこころにある。一般的には脳と云われているが、今は脳の話ではないので”こころの中にある記憶”と云っておく。

ではその記憶がどう効くかというと、こころを病んだ時、心が落ちている時、にその人の幸せな記憶が役に立つのである。

例えば、過去のある人は”薔薇の華”が好きで、薔薇を観ると幸せな笑顔を醸しだす人がいた。その人はいろんな悩みで心を病んではいたが、記憶を忘れることはない。それは、その時その時の薔薇の華の写真を見せることでこころ振り向いてくれた。

それは、その人のこころの中の幸せに唯一振れることができる方法で、自身の望む”幸せになりたい”に気づくと云った。

人は病むと気持ちに言葉が届きにくくなる。だから、言葉の代わりにその人の記憶に振れ幸せを思い起こさせる。誰もが幸せは好きである。だから唯一できる方法となる。そこからこころの会話をはじめれる。

あとは、その幸せを少しでも多くするように、その人の心の中にある幸せな記憶を引き出せばこころに効く。こころに効くとは、その人の心に余裕をつくること。その空いた余裕にさらに幸せを詰め込めばいい。

それができるのは大切な半生を共にするパートナーであり、周りにいる心友(しんゆう)となる。
この心友については「こころのパートナー」でお話したので省略します。

その方々は、自分の思い出や記憶を多くも少なくも知っております。何が好きで何が嫌いなのかその人の幸せな記憶も不幸な記憶も知っている。

だから、心を病んだ時、その記憶を引き出す”こと”ができるのです。”こと”とは話すだけではなく薔薇の華の写真を見せるだけでも何でもいいのです。心友ならできるのです。

そして、こころを病んでいるからとされるばかりではなく、自身も相手の幸せな記憶を知るのなら、相手を支えてあげるのも大切ですね。

そんな関係が『心友』というのです。

ここで一つ人として、やってはイケないことも話します。人は相手の幸せな記憶と不幸な記憶を知っております。

幸せな記憶は引き出すことで、こころを病んでなくても、相手を幸せに気づかせ共にその幸せを共有することができますが。

やってはイケないことは、相手の不幸な記憶を引き出すことです。それは、相手を傷つける最大の手段となるからです。

人は人を幸せにも不幸にもできるチカラを持っていると云うことです。そのチカラをどう使うかは自分しだいですが、不幸にすることはどんな理由があっても人がすることではありませんね。

(心のカタチより)

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