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陣中に生きる—13

十月 一日 雨

― 平穏な航海 ―

明け方、寒くて目がさめた。
内海なので、船はほとんど揺れない。
雨がシトシト降っていて、うす暗い船内は余計にうっとうしい。

正午、勤務交代。
予防接種をしたので、かたがた休養する。
前方に二せき、後方に三せき、計六せきが一列縦隊になって、軍艦に護衛されて進んでいる。
ゴトゴトという音が、引っきりなしに聞こえる、
重苦しく、耳障りである。


玄界なだもそれほどではなかった。
前回、大しけに苦しんだことを思いだす。
でも、やはり大方のものは、気分がすぐれず苦しんでいた。
食事は、まるで砂を嚙むようである。
夜は、ゆっくりと休むことができた。


十月 二日

― 祖国の見おさめ? ―

海路は平穏であり、船はほとんど揺れない。
征途であることを、忘れるほどにのんびりとしていた。
船尾に立つと、左方ははるかに島や陸地が見えた。
長崎あたりであろうか。
これが祖国の見収めかと思われた。

真紅の朝日が水平線上に出かけた。
兵隊たちは、ひたむきに拝んでいる。
土のう造り、射撃演習などがあったほか、別に仕事はない。
航海は依然平穏である。

兵隊たちはよく眠っていた。
自分も、幾日分かの寝不足をみたした。
しかし、食事のお粗末にはあきれた。
うすっぺらな漬物二切れに、梅干半分といった程度である。
銃後にくらべて、あまりの相違に納得しかねる。
まさか、粗食訓練でもあるまいに?


午後。
いささか頑張り、令状四、五枚を書く。


夜。
段列(砲弾運びをする隊)に行ってみると、唄や踊の大さわぎである。
中隊の方は、寝ているものが多い。
起きてるものの中に、鼻唄がわずかに聞えた。
気分的に、いよいよ違いが出てきたものか。


十月 三日

― 揚子江そ行 ―

形式的な点呼がすむ。
すぐに朝食。今朝は飯も足らない。
ドロップスや氷砂糖をねぶって、苦笑しているものもあった。
神戸の宿で南京虫に嚙まれたところが、いつまでもかゆくてならない。
その薬もない。


十時ごろ、甲板に砲一門を引きあげ、機関部脇に放列をしく。
兵隊たちはと見ると、あるものは手紙書きに余念がない。
大方のものは敵前上陸近しとばかり、装具や私物を丹念にまとめている。
自分は、ご厚情をたまわった方々に令状書きをする。

甲板に出てみると、顔そりをしているものもあれば、甲斐がいしく洗濯をしているものもある。
船内生活にもなれて、すっかり落着いて、さも気持ちよさそうである。
中には、すっぱだかになって、水浴をしているものもある。
自分もやりたかったが、風邪に用心をしてやめた。


十四時半ごろから、海水が黄色になりかけてきた。
双眼鏡で見ると、右側方には航空母艦と軍艦二そうが見え、左側方には、たくさんの小島が見えた。
いずれも断崖の島々である。
そのあたりには、小さな漁船が、ごみのように浮いていた。


十六時半ごろから、海水がまったく黄色になった。
揚子江から吐き出された、濁水によってである。
軍艦が時々見える。
空は美しいコバルト色で、波上の雲が上空はるかに、西から東へと動いていた。
やがて、広い広い西空が、金色さん然とかがやいての、落日である。

このあたりの揚子江はさながら海で、その水平線の彼方に大きな真紅の夕日が、今しも悠々没せんとしている。
じつに雄大広闊な眺めだ。
双眼鏡でのぞくと、その黒点がハッキリ見えた。
十八時半、夕日はまったく没した。


十八時四十五分、灯火管制に入る。

二十時四十分、下士官以上食堂に集合、次のような諸注意あり。
1. 今晩二十一時ごろ、ウースン(呉淞)港に着く。その後のことは不明。

2. 敵は相当多く、堅固な陣地を構築している。
しかも、訓練された正規軍が多く、したがって○○に於けるがごとく、一気か勢に・・・・・というようなわけにはいかない。
だから抜け駆けの功名的なことは禁じ、歩調をそろえての漸進主義をとる。
とは言え、戦いは意気であるから、その意気を失ってはならぬ。

3. 最小限○○単位で、それ以下で戦うことは当分あるまい。
揚子江口中央あたりに投びょう。
突如、ゴー然たる大音響!?
みんな不吉なものを感じてがく然!
間もなく、<軍艦接触、損傷なし>と分かる。
魚雷でなくてやれやれ!
一同安堵の胸をなでおろす。
いよいよ<祖国は遠くなりにけり>である。


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