見出し画像

オッペンハイマーと天体物理学

前回の、研究者としてのオッペンハイマー伝記の続きです。

ようは、
ボーアの元で量子力学を学び、ディラックの先駆的な予言に対して的確な指摘を行って、量子電磁力学を始めとして後世への重要な種を植え付けます。

こういった成果が認められ、1929年にカルフォルニア工科大学(通称カルテック)准教授に25歳で就任、1936年には教授に昇格します。

そこで関心がミクロからマクロに変わっていき、専門は「天体物理学」になっていきます。このあたりの転向経緯は個人的に気になります。

研究の動機は分かりませんが、オッペンハイマーは、天体の質量の大きさによっていくつか形態があることを提唱しました。

太陽よりも重い天体は、エネルギーをある程度消費したら(人間で言えば死に近い状態)、自重を支えきれずに重力崩壊を起こし、いくつかの形態になることまではわかってきました。

そこに理論的な先鞭をつけたのは、1930年代に活躍したチャンドラセカールという科学者です。

彼は、重力崩壊後に主に電子圧力で構成される白色矮星になれる条件を定式化することに成功します。チャンドラセカール限界と呼ばれます。

大体ですが、太陽の1.26倍以上の質量は、白色矮星としては存在しえないという結論です。(初期値設定でぶれます)

オッペンハイマーとその同僚は、同じように中性子間に働く力で構成される中性子星での限界を導きました。

トルマン・オッペンハイマー・ヴォルコフ限界と呼ばれます。(試験には出てきてほしくない名称・・・)

こちらも結果だけを書くと、太陽の1.5~3.0倍です。

これを超えると、超新星爆発(Super Nova)と呼ばれる天体現象が起こり、最終形態にシフトし、我々がよく知る「ブラックホール」になる可能性を秘めています。

当時は、そういった天体が存在することはほぼ認知されていませんでした。

1917年ごろに、シュバルツシルトという科学者が一般相対性理論の厳密解から予言しましたが、過去にもふれたように(下記記事)、アインシュタインですら、数学上での架空の産物と断じていました。

実際に、ブラックホールが(名付け親はホイーラー)研究として深堀されたのは1960年代で、実際に観測されたのも1970年代です。(X線観測技術の発展による)

そんな時代推移を見返すと、当時のオッペンハイマーがいかに時代の最先端を歩んでいたのかが垣間見えます。

ところが、そんな研究真っ盛りの中、マンハッタン計画の科学責任者に抜擢されることで研究を中断し、戦後も再開することはありませんでした。

噂では、戦後も生物物理学の論文をいくつか発表したらしいですが、それよりも政治的な意味合いで不名誉なレッテルを貼られます。
なんとソ連のスパイ疑惑を受けてしまい(いわゆる「赤狩り」と呼ばれました)、公職を追放されて不遇の後世を過ごします。

実は2022年末に、エネルギー省がその追放処分を撤回する声明を発表しています。

もしかしたら、ノーラン監督もこういった動きを知っていたのか、またはこういった映画を作るから撤回したのか(ノーランならあり得ると思います)、定かではありません。

いずれにしても、ノーランが描くオッペンハイマー像とその演出が今から楽しみです。

<参考リソース>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?