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ハイドンが好きな男はいない (連作短編2)

 違いのわからない男・小清水健一は惚れやすい男でもあった。恋愛においては先に惚れた方が負け。にもかかわらず、常に前のめりに生きている小清水は、相手に名前を覚えられるより先に好きになっていることも度々あった。
 恋多き小清水にはいま気になる女性がいる。路地裏のこじんまりしたパン屋の看板娘である。家庭的な雰囲気の店なので店長の娘かもしれない。20代後半に見える。
 名前はわからないが、常連客と屈託のない笑顔で話す彼女をパンを買うふりしてちらちら見ているうちに好きになってしまったのだった。
 ショートカットの黒髪の彼女はピッチの細いボーダーのTシャツだったりシンプルな服をよく着ていて、化粧っ気がない。目は大きめでくりくりしており、会計の際に目が合うとドキッとさせられる。
 生憎コロナ禍では彼女の素顔を見ることは叶わないが、目以外のパーツは普通の大きさで、大口だったり団子鼻だったりすることはなさそうだと小清水は勝手に思っている。
 この店の名前は「オフィーリア」といい、有線と思しきクラシックが常に流れている。無害で特徴のないBGMではあるが、クラシックを選んだセンスは褒めてあげたい。
 今日の夕方行ったらモーツァルトのフルート協奏曲第1番のアダージョが流れていた。店内にいた50過ぎのおばさんが惣菜パンを4つトレイに並べていた。
 小清水はこの店のくるみパンが好きだ。看板娘が気になるからといってさすがに好みでもないパンを定期的に買う気にはなれない。この店のくるみパンは看板娘と同じで素朴である。毎日食べても飽きない味。ほんのりと甘味がある。
「無添加パン」というのが「オフィーリア」の売りである。いったい何を添加してないのか小清水にはわからないが、身体にいいのだろうことは察しがつく。
 6つあったくるみパンの1つをトングで取ると、惣菜パンのおばさんはレジに並んで看板娘と話し始めた。
 今日は友人らを招いて夕食を振舞ったあと麻雀をするので、小腹が空いたときのために買ったらしかった。
「こないだ四暗刻アガったのよー。シャボだったからリーチかけたんだけど、一発ツモ!  運を使い果たした気するわ」
 おばさんが大声で笑うと、
「私ならヤミテンですかね」
 看板娘も一緒に笑う。小清水には何のことかさっぱりわからないが、麻雀もたしなむと知って彼の恋心はいっそう刺激された。
 清楚なだけでは物足りない。危険な香りのするスパイスは恋の気分を盛り上げる。
「恋はするものではない。落ちるものだ」と有名な哲学者が言っていた。小清水は深い深い井戸の底にいた。

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