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ちあきなおみ 歌姫伝説

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ちあきなおみ~歌姫伝説~をまとめました。
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2022年8月の記事一覧

ちあきなおみ~歌姫伝説~18 私の途・後篇

ちあきなおみ~歌姫伝説~18 私の途・後篇

 東京キッドブラザースは、寺山修司や横尾忠則らと演劇実験室・天井桟敷を結成し、退団した東由多加が、一九六八(昭和四三)年に創立した日本のミュージカル劇団である。
 
 キッドは"愛と連帯"を綱領に掲げ、青春の怒りと哀しみと歓びを描き、歌を武器として、アメリカやヨーロッパなどにも進出した。
 一九七〇年代後半から一九九〇年代初頭にかけて、劇団としては圧倒的な観客動員数を誇り、日本武道館、日生劇場、後

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ちあきなおみ~歌姫伝説~17 私の途・前篇

ちあきなおみ~歌姫伝説~17 私の途・前篇

 私が、ちあきなおみの個人事務所にマネージャーとして入社した一九九一(平成三)年から、退社するまでの八年間に及ぶ体験を顧みた手記を発表したのは、二〇二〇(令和二)年のことである。
 この手記は、一年、また一年と、ちあきなおみが芸能界から姿を消してから流れてゆく時間の中で、私の想いが、書かざるを得ない局面を迎え、なんとしてでも伝え遺したいという強い動機が人との出逢いを生み、出版という形で多くの人々の

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ちあきなおみ~歌姫伝説~16 郷鍈治の途・後篇

ちあきなおみ~歌姫伝説~16 郷鍈治の途・後篇

 一九五八(昭和三三)年十月二九日公開の「俺らは流しの人気者」(野口博志監督)で、郷鍈治(以下・鍈治)は兄の宍戸錠(以下・錠)の推薦を受け、「街の流しⅮ」という役どころで出演(宍戸鍈治名義)した。
 しかし、鍈治はこれ一回で、とてもじゃないが自分には向いていないと、もう映画出演には嫌気が差していた。だが、運命は再び鍈治を映画界へと誘う。大学卒業を間近に控えた頃、またしても錠から声が掛かったのだ。

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ちあきなおみ~歌姫伝説~15 郷鍈治の途・中篇

ちあきなおみ~歌姫伝説~15 郷鍈治の途・中篇

 一九四七(昭和二二)年、戦後混乱期、野望崩れ去り、宍戸家は全財産を失い一転して奈落の底に突き落とされる。
さて、これからどうしたものだろか・・・・。 
 おそらく、幼かった郷鍈治(以下・鍈治)はこの重大な局面において、両親や親戚、また兄たちや姉の苦悩を肌で感じつつも、判然としないままその状況に身を置いていたものと思われる。ただ、目まぐるしく変化してゆく時代状況と自らを包囲する環境の中で、ものの善

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ちあきなおみ~歌姫伝説~14 郷鍈治の途・前篇 

ちあきなおみ~歌姫伝説~14 郷鍈治の途・前篇 

 さて前回まで、ちあきなおみが歩いた途を私なりに彷徨い、「喝采」でレコード大賞を受賞
するまでの足跡、その後の歌手としての葛藤と逡巡まで辿り着くことができた。
 この当時、メディアはテレビ全盛時代にあり、一九七二(昭和四七)年、ちあきなおみが「喝采」で出場した「第23回紅白歌合戦」の視聴率は、八〇・六%(ビデオリサーチ調べ)である。
 大晦日はレコード大賞から紅白歌合戦をつづきで見る、というのが一

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ちあきなおみ~歌姫伝説~13 ちあきなおみの途・後篇

ちあきなおみ~歌姫伝説~13 ちあきなおみの途・後篇

 ちあきなおみ(以下・三恵子)のデビューのきっかけとなったのは、レコード会社日本コロムビアのオーディションだった。
 類まれな歌唱力を有する三恵子ゆえに、さらなる完成型のプロ歌手としてのデビューを目指し、一年半近くにも及ぶレッスンの日々がはじまる。
 二十歳の三恵子が、本格的にちあきなおみとして歩み出す序開であった。
 レッスンでは、主に西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」(作詞・水木かおる 作

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ちあきなおみ~歌姫伝説~12 ちあきなおみの途・中篇

ちあきなおみ~歌姫伝説~12 ちあきなおみの途・中篇

 十二歳になったちあきなおみ(以下・三恵子)の、ふつうではない、その後の人生へと繋がれてゆく漂泊の門出となったのは、やはり歌だった。
 そこには、両親の離婚という事情もあったであろうが、それは歌うことで母親を喜ばせることができるのならば、という、引っ込み思案で人間嫌いの少女が神様に課せられた、「歌わなければいけない」という使命だったのかもしれない。

 中学生になると、三恵子と母・ヨシ子は居を東京

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ちあきなおみ~歌姫伝説~11 ちあきなおみの途・前篇

ちあきなおみ~歌姫伝説~11 ちあきなおみの途・前篇

 ちあきなおみ、本名・瀬川三恵子(以下・三恵子)は、一九四七(昭和二二)年九月十七日、東京は板橋区に三人姉妹の三女として生を受ける。
 ちなみに昭和二二年は、日本において第一次ベビーブームがはじまった年である。第二次世界大戦終結後、平和の旗の下に世界各国でも同種の現象が起こったが、日本では昭和二四年までの三年間で、約八百万人の出生数が記録されている。少子化の一途を辿る現在の日本の出生数からしてみれ

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