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ちあきなおみ~歌姫伝説~13 ちあきなおみの途・後篇

 ちあきなおみ(以下・三恵子)のデビューのきっかけとなったのは、レコード会社日本コロムビアのオーディションだった。
 類まれな歌唱力を有する三恵子ゆえに、さらなる完成型のプロ歌手としてのデビューを目指し、一年半近くにも及ぶレッスンの日々がはじまる。
 二十歳の三恵子が、本格的にちあきなおみとして歩み出す序開であった。
 レッスンでは、主に西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」(作詞・水木かおる 作曲・
藤原秀行)を反復して歌った。
 私は十年ほど前、神田神保町のレコード社でこのレコードを手にしたが、今改めて聴いてみても、この歌で表現される恐ろしいまでの女の情念、怨念がその歌詞の内容からひしひしと伝わってくる。
 今にして思えば、女心を歌わせたら右に出るものがいない、と言われるちあきなおみにとって、この歌をレッスンで歌いつづけた時間は、プロ歌手となるための根幹をなす"なにか魂のようなもの"を掴んだ、かけがえのない瞬間瞬間の連続であったと言っていいかもしれないであろう。

 そして、一九六九(昭和四四)年六月十日、三恵子は、日本コロムビアより「雨に濡れた
慕情」
(作詞・吉田央 作曲・鈴木淳)でレコードデビューを果たす。
 歌手・ちあきなおみの誕生である。
 ここに、そのデビューシングルとなった「雨に濡れた慕情」のレコードがある。その中に、ちあきなおみの宣材資料が付いているのでご紹介してみたい。

魅惑のハスキーボインが誘惑
ちあき・なおみ わたしの過去、知りたくない?
3才で舞台にあこがれ、タップ・ダンスを習い、5才で日劇のステージに立った。しかし、幼稚園を卒業する頃ともなると、カッコいいチャンバラごっこが好きになり、小学校に入ると、殺陣に興味をもち、大内剣友会に入門した。
長ずるにしたがい、ちあき・なおみも、女ごころにめざめ、剣をすてて踊りに走る。走ったついでにモダン・ダンスも勉強した。
その後、歌こそわが人生と悟り、最も尊敬する鈴木淳先生の門をたたいた。門はかたくとざされていたが、彼女の熱意が先生を動かし内弟子となった。
毎日のレッスンはきびしかった。しかし、婦人科を得意とする鈴木淳先生のこと、わずか1年間で、ちあき・なおみに、味のでる歌唱法と、豊かな表現法を体得させた。
その結果、ちあき・なおみ生来の個性的なフィーリングは、一段とみがかれた。
そして、今年の6月ついに念願のデビュー曲の発売が決まった。

「雨に濡れた慕情」シングル盤・宣材資料

 読んでいるとこちらが恥ずかしくなってしまうような、なんとも言い難い宣材文章だが、
「ちあき」「なおみ」のあいだに・(中点)が記されているのは、文頭の"魅惑のハスキーボイン"とともに、デビュー時のキャッチフレーズであった"苗字がなくて名前がふたつ"を強調して注目度を高める戦略であろう。
 なお芸名の由来は、当時フジテレビのプロ
デューサーであった千秋予四夫氏の姓と、坂本龍馬の忌み名である「直柔」にヒントを得て
合わせたものとされている。

 時代背景として、ちあきなおみデビューの年は、アポロ11号が人類初の月面有人着陸を成功させた年のことである。
 日本はまさに、様々な分野で歴史の変革期となる時期にあり、七〇年安保条約阻止に向けて学生運動が過激さを増し、カウンターカルチャーが隆盛を誇り、アメリカで開催されたウッドストック・フェスティバル(カウンターカルチャーを象徴するコンサート)の影響もあり、巷では反戦フォーク、ロックが声高に歌われていた。さらには、寺山修司の天井桟敷、唐十郎の状況劇場などのアングラ劇団が熱を帯び世間を賑わせ、松竹映画「男はつらいよ」(山田洋次監督)がはじまった年でもあった。

 ちあきなおみとなった三恵子は、このように目まぐるしく移り変わる時の中で、同じ年頃の若者とは異なる感性で、時代の変節を感じていたに違いない。一筋の途を生きてきた過程において、三恵子の心に刻まれた豊富な財産は、すでに大人じみた強靭な精神の芯を生成させていたのだ。

 デビュー曲「雨に濡れた慕情」は、本人も「ジャズっぽくていいでしょ」と言う歌である
が、「二一歳で遅いデビューだったから、当時は随分老けた新人が出てきたって、よく言われたわ」とつづけて言うちあきなおみに、老けではなく、若者らしからぬ新人の姿を私は想像したものだった。その後、「しばらくアイドルやってたんですよ」との回想どおり、ちあきなおみの時間を辿ってみれば、一九七〇(昭和四五)年、「四つのお願い」(作詞・白鳥朝詠 作曲・鈴木淳)、「Ⅹ+Y=LOVE(同)、一九七一(昭和四六)年、「無駄な抵抗やめましょう」(作詞・なかにし礼 作曲・鈴木淳)、「私という女」(同)などを歌い、レコード会社やプロダクションに敷かれた道をゆく後姿が見える。
 しかしレコードのヒットをよそに、「ただ売れるためにと、葛藤も混沌もない歌ばかりで、このままでは私はダメになってしまう」と、当の本人は危機感を抱いていたのだ。
 この時間の中で、七〇年「四つのお願い」で紅白初出場、七一年には日劇で初のワンマンショー、テレビドラマやバラエティ番組にも出演し活動の幅を広げてゆく。

 そして一九七二(昭和四七)年、「喝采」で「第十四回日本レコード大賞」を受賞し、歌謡界の頂点に立つ。このとき二五歳、デビューから僅か三年目の快挙であった。帝国劇場から生中継された視聴率は、四六・五%(ビデオリサーチ調べ)を記録している。
 十二月三一日、日本中の視線が注がれる中、時代の要請に誘われるように一歩一歩と栄光のステージへと歩を進める三恵子は、時の人になりながらも、やはり心は己が歩いた途へと向けられていた。

よくもここまで辿り着いたものだ・・・・。 
私は今どこにいるのだろう。

 ステージから向けられる光が眩くて、なにも  かもがぼやけて幻のようだ。まるで白夜の中、遠い遠い遥かな無窮の地をゆくように、三恵子はその壇上へと上り詰めた。

そうだ、私は歌わなければいけないのだ。どうしてだろう・・・・なにか無性に寂しい。
この喝采が、本当の私を切り裂いて、永遠に離れ離れにしてゆくようだ。
私にはまだ、愛する人がいない。私はまだ、なにものでもない。私は歌の中の「わたし」のように、愛する人を失くしたとしたら、歌いつづけることができるだろうか。でも、私は今、歌の中に生きなければいけない。
きっと私は、なにか大切なものを失くしつづけているのだろう。
あの日のように、夜空を見上げなければ。
泣いてはいけない、泣いてはいけないのだ。

 あの面影に、私は歌う。
 それが、私の愛・・・・。

 このとき、三恵子が歌いながら降りそそぐライトの彼方に見ていたのは、自身の涅槃の中に舞い上がる、飛龍の姿だった。

 その後、翌年一九七三(昭和四八)年、「劇場」(作詞・吉田旺 作曲・中村泰士)、「夜間飛行」(同)、一九七四(昭和四十九)年には、「円舞曲」(作詞・阿久悠 作曲・川口真)、「かなしみ模様」(同)などの、ドラマチック歌謡路線を進む。
 このあたりで私は、ちあきなおみの姿をはっきりと捉えることができるようになってくるのだ。
「ヒット曲を追ってゆくことに疲れてしまった」
 いつしか、辿り着いたちあきなおみは自分自身を追い越し、売れるために、逆に「ちあきなおみ」という名前を追いかけていかなければならなくなってしまっていた。この頃のちあきなおみの神経は、多忙極まる仕事をこなす傍らで、刃を研ぐ時間さえ奪われたように鋭敏さを欠いてゆき、その身体は悲鳴を上げていたのである。
 だが、ちあきなおみは昨日、今日、明日と、それぞれの時間の中で、仕事として歌う自分を懐疑し、自身の歌のあるべき姿への渇望と、歌謡界の商業主義との狭間に、かろうじて踏みしめる途がないものだろうかと、模索を繰り返す日々を紡いでいた。

 そんな折、ちあきなおみの前にあらわれたのが、俳優である郷鍈治だったのだ。
 このふたりの運命的な邂逅が、ちあきなおみの疲れ切った身体を歌魂へと回帰させ、昇華させてゆくこととなる。
 それは、ちあきなおみ"歌姫伝説"のはじまりだった。
               つづく

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