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ちあきなおみ~歌姫伝説~12 ちあきなおみの途・中篇

 十二歳になったちあきなおみ(以下・三恵子)の、ふつうではない、その後の人生へと繋がれてゆく漂泊の門出となったのは、やはり歌だった。
 そこには、両親の離婚という事情もあったであろうが、それは歌うことで母親を喜ばせることができるのならば、という、引っ込み思案で人間嫌いの少女が神様に課せられた、「歌わなければいけない」という使命だったのかもしれない。

 中学生になると、三恵子と母・ヨシ子は居を東京の大森へと移し、ふたりきりの生活がはじまった。プロダクションに所属しながら、ステージ名を「メリー児玉」「五条ミエ」「南条美恵子」と変遷させながら、ジャズ喫茶で歌い、スター歌手の前座として地方回りなどの営業をこなしてゆくようになる。
 このあたりは、おぼろに霞む一筋の途を旅する私を霧が立ち包み込んでしまう時間であるが、それでも、先方に小さく消えゆきそうな一点の燈火に目を凝らすような心境で、一心にとぼとぼ歩を進めてみると、闇のあかりのはためく蔭に、小さな轍を発見した。
 それは、ちあきなおみが五条ミエとして、サンケイホールで歌った「ビクターポップス」と題された公演のパンフレットである。その中に出演者が顔写真付きで紹介されており、美樹克彦、黛ジュンなどとともに、五条ミエの紹介がされているのでご紹介させていただきたい。
 これは、一九六〇年代のジャズ喫茶について調べゆく過程において、関係者より入手した貴重な史料である。

 五条ミエ
昭和22年東京に生る。56年より歌の勉強を始め、現在音楽喫茶で活躍中。
強烈なビートを持った曲目を得意とし「小さな悪魔」「ドミノ」「真夜中のロック・パーティ」「ルイジアナ・ママ」「ドドンパNo5」等、レパートリーを有する将来有望なローティーン歌手。

第1回ビクターポップス・パンフレット

 この文面には、制約文字数などの関係もあろうが、米軍キャンプ時代のことは割愛されて、ロック歌手としての五条ミエを前面にアピールしている印象を受ける。
 文中にある音楽喫茶とは、六十年代に隆盛を誇ったジャズ喫茶のことである。

「週刊現代」2021年9月25日号

 そしてこれは、私が「週刊現代」に掲載された【ちあきなおみと山口百恵 その不在が奏でるメロディ】の取材を受けた際、ライターの里中高志氏から教えてもらった話だが、昔大阪の「ナンバー番」というジャズ喫茶でハーブ佐竹のショーがあり、そのとき五条ミエが、"ツイスト娘"という触れ込みで出演しており、これが十五歳のちあきなおみだったと、浜村淳氏が証言されていたそうである。当時はジャズのレコードを鑑賞する店と同じく、ロカビリーやグループ・サウンズなどのライブステージを見せる店もジャズ喫茶とされていたのだ。
 なお前記した「ビクターポップス」は、「ビクター祭り」と呼ばれていたそうで、現在でも毎年開催されている「ビクターロック祭り」というフェスのはしりであると思われる。
 このステージで歌う五条ミエの姿を想像すると、私はなにやら淡い哀色をした、言い知れぬ思いに囚われてしまう。

 一九六〇年代初頭、高度経済成長期の中、家庭の事情と自身の夢が重なり、再びスポットライトの中へ帰ってきた三恵子は、この後もちあきなおみとしてデビューするまでの約八年間、必死の思いで歌いつづけるのだ。
 おそらく、十代前半という、物心がついてから感受性豊かな期間に体感した経験は、見せかけではなく身体で歌うかのような、後のちあきなおみへと通底してゆくひとつの原点となったことは間違いないであろう。

 前座歌手としてスター歌手の一座に入り、ステージに立ち、旅から旅への生活。見知らぬ土地で歌い、公演がはねると次の町へ。当然ながらマネージャーも付き人も同行していない三恵子は、ひとりで衣装や化粧道具を抱え、バスや船で日本各地を巡業するのである。
 田舎町を夜汽車に揺られ、窓の外をぼんやり見ていると、遠くにあかりが灯る一軒の家がある。こんなところにもふつうの家族の幸せがある・・・・。その幻を想像しては、喉元まで心が突き上げてきて、泣き出すまいと夜空を見上げた。
「ひとりの人間の涙の量というものは、あらかじめ神様に決められているのです。悲しくて
も、むやみに泣いてはいけません。涙は、人間の一番美しい感情の物語です。人間は、人間を愛するために生まれてきたのですから、どうぞその人のために、大切な涙をとっておいてください」

 大好きだった小学校の先生の言葉が三恵子の脳裏をよぎる。
「果たして私は、それほどまでに狂おしく愛する人と出逢うことなどできるのだろうか」
 そんなことをぼんやりと考えながら、星の見えない空に、おうし座、ふたご座と描いてみると、真っ暗な空のもっともっと高いところに、あの、心に描いた幸福の絵の中の破られた風穴を埋める、未だ見ぬ男性の顔が微かに浮かんでくるようで胸が締め付けられるのだ。
 どうしてだか、三恵子にはおぼろに見えるその顔が、どこか懐かしい感じがして切なかった。
「この寂しさを、私はどうすればいいのだろう・・・・」
 港町での公演でステージまでの空き時間、海を見て過ごしながら、港を出てゆく船の数を一艘、二艘と数え、思いっきり手を振りながら見送っていると、息が詰まり、ただわけもなく悲しくなってくる。あの船に乗ってどこか遠くへ、幼い日、はじめて見た海へと帰ってゆけたらどんなにいいだろうと、目が眩むような思いに覆い被さられ、波止場に座り込んだまま時をやり過ごす。
 しかし三恵子は、自分の境遇を恨んだことなど一度もなかった。
「いつか愛する人のために、私はこの涙を泣いてしまうわけにはゆかない。私は、今日も、歌わなければいけない」
 三恵子にとって、歌うことは、生きることだったのだ。

 そんな生活ぶりの中で、三恵子は印象深い、あるひとつの絵柄を目にする。それはひとりの男の背中に描かれた、飛龍の刺青である。
「おねえちゃん、いいもの見せてあげようか、と言って舞台の楽屋で上半身服を脱いで見せてくれた。なんか怖かったけど興味津々で見ると、天に昇ってゆく龍の絵だった。うわーって、うっとりして感動しちゃった。あの刺青は本当にきれいで、今も目に焼き付いている」
 これは確か、私がちあきなおみに今と昔の芸能の興行形態の違いについて教えてもらっていた際に、話の流れで聞いた言葉であったと記憶しているが、やはり当時の芸能興行は、その土地の顔役的な存在が仕切っていたのだろうと思われる。
 それはともかく、私はまだ十代の少女が、男の背中に彫られた刺青を美しいと感じる感性
に、いかにもちあきなおみだなという思いと、ひとつの作品に対する純粋で繊細な視点に深いうなずきを禁じ得なかった。
 龍は神話の中の伝説のいきものであり、私はこのときのちあきなおみの話しぶりから、どこか当時の三恵子が、その竜巻となって天空を飛翔する龍の姿に、いつか出逢う、愛する男性を重ね合わせていたような気がしてならない。
 だが、そんな時間の中でも、三恵子は歌に対して勇猛精進の志を崩すことはなかった。
 やがてキャバレーや余興ショーなどの舞台で、ロック、ジャズ、また着流し姿で演歌などを歌いこなしながら、音楽への造詣を深めてゆく。
 時として、一筋の途をゆく生一本の少女の前に、不意に倒れかかる枯木のように、その心を搔き乱す危険や誘惑が横たわる。その度に、自分には封じられたふつうの青春の幻影を打ち消し、かりそめの拠りどころを求め、迷い、藻掻いたりもした。そのような煩悩を剋さねばならない理由を狐疑したりもした。
 しかしながら三恵子の前には、ただ一心に歌う途しかなかったのだ。そこにはふつうの青春の一節からは決して読むことのできない、静かなるもしたたかに燃え上がる、炎のような熱情があった。
 その劇しさを歌い、その思いを胸に抱きしめ、三恵子はレコードデビューへと向け歩を詰めてゆくのである。
               つづく

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