#創作大賞2024
国語力の問題 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む97
国語力とは何か
平野啓一郎の『三島由紀夫論』を繰り返し読みながら、私が繰り返し悩まされてきたのはこの問題だった。この問題って何? それは「見出し」にも書いてあるけれどもう一度今から書くよ。つまり「国語力とは何か」という問題に関して繰り返し悩まされてきたのだ。
それはおそらく国語力においては日本でもトップクラスである筈の平野啓一郎の文章を人にものを教えるほどの自負を持つ新潮社校閲部がチェックし
三島由紀夫の『花ざかりの森』をどう読むか⑥ 男は海
これ読んで買うか買わないか、一生そのままでいいのか決めて。
武家と公家
さして文体にこだわるでもなく、思想性を摘まみ上げるにしたって、『花ざかりの森』は確かに魅力的な、いくつもの材料を用意してくれている。おかずと言えば揚げ物しかない弁当屋とは違って、『花ざかりの森』には三島由紀夫のあれやこれやがあるのだ。
例えばこの武家と公家の祖先という話、綾倉家に預けられた松枝清顕のようであり、祖母
それは家ではなく氏だ 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む96
96って……。
そろそろ疲れてきた。
いくらbotでも読むのに疲れただろう。
しかしまだまだ問題は山積みだ。
もう少しだけ続ける。
天皇は裏切ったのか
平野啓一郎が言う通り『奔馬』において「二・二六事件を彷彿させるエピソード」は実現していない。「二・二六事件」が唯一の「天皇に裏切られる」エピソードのスタイルであるならば、『奔馬』において「天皇に裏切られる」エピソードは実現し
少々細かいですが 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む95
何故 『四島由紀夫論』 ではないのか
平野啓一郎の『三島由紀夫論』は、何故平野啓一郎の『四島由紀夫論』ではないのか。この問題は平野啓一郎の『三島由紀夫論』が平野啓一郎の『三島由紀夫論』でありうるためには、何が必要なのかという問いも含んでいる。
五島由紀夫
六島由紀夫と切りがない。
結局三島由紀夫と言えば三島由紀夫なのだ。
あの三島由紀夫について書くならば大まじめにやらないといけ
お言葉が過ぎます 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む94
何故『豊饒の海』を書いたのか?
平野啓一郎の『三島由紀夫論』の裏表紙にはこう書かれている。
これが全くの嘘であることはすでに説明した。平野啓一郎の『三島由紀夫論』は「その生と死の必然性を「テクストそのもの」の中から見出してゆ」かない。ここはそのまま読めば誠実さのかけらもないどうしようもない嘘宣伝である。
それにしても何か救いようがあるのではないかと考えてみる。
例えば「最後の作品『豊
三島由紀夫の『花ざかりの森』をどう読むか⑤ ものが違う
あらかじめ言っておいたはずだ。
わからないよと。
漱石や鴎外なんかいくらひっくり返してもこんなものは出てこないよと。
三島由紀夫はこの時まだ自分の言語能力をセーブするということをしらなかった。自分以外の普通の人間がどの程度の抽象化に耐えられるものかしらなかった。
自分が特別だと気がついていないのだ。どの程度の言葉の揺蕩いの中に雅を感じ得るものかどうかを、近代以前の日本文学、万葉歌
嵩はある 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む93
そうかもしれないけれど書き方の問題として
形式というものは大切だ。注記や解説というものは根拠を示し、ここにこう書いてあったのでこうだ、という形式が望ましい。ロジックの展開は本文で好きにやって、流れをぶつぶつ切らないようにして、『なんとなく、クリスタル』のように後でたくさん注記をつけた方が解りやすい。
平野啓一郎はその形式というものを一応理解している筈だ。「Ⅲ 『英霊の声』論」の注記1は、
〈絶対者〉は空洞か 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む92
北村透谷の引用に関して
平野啓一郎の『三島由紀夫論』「Ⅰ『仮面の告白』論」注記40に『厭世詩家と女性』(北村透谷)とあり、
と透谷の一文が引用されていた。青空文庫からの引用であろうか。しかし北村透谷作品が長らく改ざんされていたことを思えば、北村透谷作品はけして時代を代表できる言説ではありえないので、ここはさらに注記が必要となろう。
少なくともこれから北村透谷作品を引用する場合は何年のど
そんな(略)はないものだ 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む91
ミスなのか欺瞞なのか
誕生日おめでとう。
以下はプレゼントだ。毎日プレゼントを91回も贈ってくれる人なんか他にいないだろう。
例えば三島由紀夫の最期について、生首になったんだから今更嘘だとか贋物だとか言ってもつまらないと私は考えている。誰にでも簡単になしうることではごまかせないものも、生首はごまかせてしまう。
そういう意味で平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む者を悩ませるのは、そのボリ
男性の秘密 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む90
三島由紀夫は何故、あのような死に方をしたのか?
この問いを後何度か繰り返さねば、平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読んだとは言い切れないような気がしている。私自身未だ「三島由紀夫は何故、あのような死に方をしたのか?」という問いに対する答えを一つに絞り切れているわけではないが、平野啓一郎は一応、こう答えているように読める。
三島由紀夫は「天皇陛下万歳!」というという言葉に自分の存在の全体性を託し
三島の核 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む89
出る順平野啓一郎の『三島由紀夫論』の間違い
あまりにも時間がないので最低限ここまでは必ず押さえておきたいというポイントを三つに絞ってみた。
それは、
①「天皇主義者」の起源 ✖十代の精神 〇『風流夢譚』
②「天皇主義者」の正体 ✖憂国の義士 〇言行一致
③『豊饒の海』の結末 ✖呆然 〇記憶喪失
最後は少し引っかかるかもしれないので少し補足しよう。
解脱とは
平野啓
三島由紀夫の『花ざかりの森』をどう読むか④ 弟かもしれない
二つ前の夢の中の景色は北国に雪の降り始める冬だったはずだ。しかしそんなことが問題ではない。母のことが書かれておらず母屋と父のいるいおりの位置関係の説明もいい加減なまま、果樹園の一部の葡萄園の話になり、蜂の話になり、夏雲の話に移った。『花ざかりの森』の文体は何かを物語るようでほとんど説明になっていない。決してそういう種類のユーモアではない。何かは語られ、ストーリは形作られない。なんなら何が起きてい
もっとみるもう時間がない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む88
もう時間がない。
間に合わない。
それなのに……。
他人の重み
160 148 145 163?
平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読んでいるとなかなかうまくまとめているなと感じるところが、実際に三島作品そのものを読み直してみると全然そういう話ではなかったということが少なくない。
例えば「Ⅳ 『豊饒の海』論 59 父と息子」というこの切り取り方がまず、「おおっ」と思わせるところで
三島由紀夫の『花ざかりの森』をどう読むか③ どちらから見て左なのだろう
平岡公威少年の書いた『花ざかりの森』が「祖先との邂逅」の物語であり、その祖先が老人の肖像ではなく奇妙にも若い生き生きとした姿で顕れる序の巻に始まり、「その一」では夢とうつつのあわいのような追憶で始まることを見てきた。
汽笛は夢で汽車に置き換えられる。汽車は電車にスライドする。
このスライダーにバッターはついていけない。ざるそばを注文したはずなのにウズラの卵がついていないことに当惑する関西人