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嵩はある 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む93

そうかもしれないけれど書き方の問題として


 形式というものは大切だ。注記や解説というものは根拠を示し、ここにこう書いてあったのでこうだ、という形式が望ましい。ロジックの展開は本文で好きにやって、流れをぶつぶつ切らないようにして、『なんとなく、クリスタル』のように後でたくさん注記をつけた方が解りやすい。

 平野啓一郎はその形式というものを一応理解している筈だ。「Ⅲ 『英霊の声』論」の注記1は、

*1 「果たしていない約束」

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 このように書かれていて、212ページの、

 私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通り過ぎたのだ。」と総括することになる。*1

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 という論旨が「作家が批評家を批評したり、それに対して何らかのエクスキューズをするのは筋違いだと僕は考えている。悪い批評というのは、馬糞がたっぷりとつまった巨大な小屋に似ている。もし我々が道を歩いているときにそんな小屋を見かけたら、急いで通りすぎてしまうのが最良の対応法である。『どうしてこんなに臭いんだろう』といった疑問を抱いたりするべきではない。馬糞というのは臭いものだし、小屋の窓を開けたりしたらもっと臭くなることは見えているのだ」という村上春樹の『村上朝日堂』の記述を論拠とするのではなく、三島由紀夫の「果たしていない約束」という文章を論拠にしていることを示している。

 おそらくこの形式は正しいものである。

 同じようにして「Ⅲ 『英霊の声』論」の注記2は、

*2 『平凡パンチの三島由紀夫』(椎根和)

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 と書かれていて、

 後の話だが、四十代になってからは、六七年に『平凡パンチ』の読者アンケート「オール日本ミスター・ダンディはだれか?」で一位に、翌年の「ミスター・インターナショナル」では、ドゴールに続いて二位に選出されるなど、椎根和によれば、一種の「スーパースター」であった。*2

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 と述べた根拠を示している。

 つまり平野啓一郎は注記の形式というものを理解している筈なのである。ところが、「Ⅲ 『英霊の声』論」の注記25は、

*25 三島はまた、在日朝鮮人や原爆の被爆者が、いかに政治利用されてきたかを批判的に指摘している。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 ええと、

 よく調べてみたらそりゃそうなのかもしれないけれど、一応、何と言うか、書き方の問題として、「その事実はこれこれにより確認できる」っていう形式にしないと駄目なんじゃないの?

 そしてこの理屈は、

                                *25
 彼は、「われわれ文化の側に立ち、人間の側に立つ人間」は「疎外や少数者というものを積極的に評価するところから出発しなければならない。」とし、また、「われわれは疎外に固執し、少数者集団の権利に固執するものである。」とも語る。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 こう語る論理展開とずれていないだろうか。

 こう見ていくとむしろ、

 そして、このような「少数者意識の行動の根拠」こそが、天皇なのである。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 こうした言い分にこそ論拠の提示が必要であるように見えてくる。

 つまり天皇は、その永遠性によって、あらゆる疎外された存在を、そのままの本質とともに受け止める〈絶対者〉なのである。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 細かい説明を省いてズバリ言ってしまえば、この個所は『英霊の声』という逃れ難く天皇の問題を突き付ける作品にかこつけて、『禁色』や『仮面の告白』におけるセクシュアル・マイノリティの問題と天皇をむりやり結び付けようとしているところである。章としては「2「身を挺したい」もの」なのである。

 読み返してみればやはりこの辺りの論理の飛躍は甚だしくバランスを欠き、全体としての整合性も取れていない。そこからさらにはみ出すようにして注記でバランスを崩してくるのは、破調狙い、

稲妻や二尺八寸ソリャこそ抜いた

 の談林調とでも言うしかない。

笑うべきなのか


 もしもこの本を太宰治が書いていたら確実にここは笑うべきところなのだ。

 本書は、三島が最後の行動に至る軌跡を、その作品に表現された思想に忠実に辿るものだが、

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 いやいや。

 それはない、「三島が最後の行動に至る軌跡を」というのなら、

・村田英雄への電話
・編集者へのすっぽかし
・中古のコロナで「唐獅子牡丹」の大合唱
・奇蹟的な大活躍
・檄と檄文のずれ
・首が取れた

 ここの説明をしないといけないし、「その作品に表現された思想に忠実に辿る」と言いながらあっちこっちから余計なものを持ち込み特に『最後の言葉』に影響を受け過ぎた作品解釈を改め、作品そのものにあった思想性を拾い、変遷を見なくてはならないだろう。
 例えば『花ざかりの森』においては祖母の問題を考えないわけにはいかない。

 しかし「祖母は〈天皇〉だ」と書くとさすがに飛躍した感じになる。だから平野は『花ざかりの森』を論じることが出来ない。

 そもそも『豊饒の海』で天皇を見失っている平野は『豊饒の海』で「天皇陛下万歳」を説明できているだろうか。この点、私には不十分とか、曖昧というごまかしさえ認められない。

 はっきりと「完全にできていない。失敗している」と言って良いと思う。

 では『豊饒の海』で三島由紀夫の「死」に至る思想そのものは捉えられているだろうか。

 この点もやはり、

 以前、三島に対して深い理解のある、とある人物と会話した際、「結局、引っ込みがつかなくなったんでしょう。」と端的に指摘されたことが忘れられない。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 このように「あとがき」に書かれてしまっていることから、主体的な死、思想に基づく行動、という解釈を放棄してしまっていることにはならないだろうか。

 やや投げやりな言い方ながら「三島に対して深い理解のある、とある人物」が語った内容には全く違和感はない。

 三島由紀夫氏が自決した時、阿川弘之氏と三浦朱門が、それを伝えに行った時も、吉行(淳之介)氏は誰かとマージャンをしていた。そして話を聞いても、顔色一つ変えず、「それはお前、もつれにもつれた人間関係の清算よ」と言っただけだった。

(「蕎麦屋の勘定」 曽野綾子)

 三島は森田一人に殺されたとは思わない。しかし森田は既に三島由紀夫に長生きをさせないことを決めていた。そしてすでに勘定を取りに来ていた。いずれ精算は必要だった。三島の死にはそうした本人の思想や希望とはずれた部分も間違いなくあった。そのことは『豊饒の海』からは読み取れない。

 火掻き棒で殴られる本多の透に対する恐怖を、三島の森田に対する恐怖と重ねられないかとも考えてみたが、よくよく考えれば本多は既に八十歳の老人なのだ。透は本多を殺しはしない。ただ暴力的に支配する贋物なのだ。森田は寧ろ本物の国粋主義者であると言って良かろう。透はやはり森田ではない。


どうして止められると思うのか


 これまで三島由紀夫の死に関しては多くの人が多くの解釈を述べてきた。それらは先ほどの「しがらみ説」という非主体的なものではない方が圧倒的に多い。あくまでも例えばという話で、

・「死んだ神をよみがえらせようとして切腹した」

・「絶対者としての神―天皇」を希求すると同時に、「最高の相対主義」である「唯識論」を根底に据えて、『豊饒の海』を書いた。その「絶対主義と相対主義の対立・拮抗の緊張関係が崩れるとき」が、死であつたとする。

・「美しい天皇を自分だけのものにするために戦後の天皇制から亡命した」

・「何の意味も持たない、純粋に見かけ上の効果を狙った、スノビズムによる自殺」

・「人間のうちにあって人間を超えるものの噴出」

・「作家たる自分を死なしめ、言葉と無縁な平凡な死を死ぬことが狙い」

・「純粋に死のための死。死がそのまま生の昂揚である死に至った」

・「死の思想という一元的虚構」だけを頼りに、すべてを転倒させ、終止符を打とうと企てた。

・「生の充実感を求めて自己劇化を行い、政治に踏み込んだ。その二つが交わったところが楯の会の会員らと行動し、切腹して死ぬことであった。それはまたエロティシズムの極致の実現でもあった」

・「自衛隊を死に場所として、宙吊りにされた生を完結させた」

・「ゾルレンの論理のために死んだ」

 ……敢えて誰のどの本からの引用とは書かないけれども平野啓一郎ならそれがほぼわかるだろう。そしてまたこうした様々な文学的表現が「しがらみ説」で相対化されてしまうことも理解できるはずだ。だからこそここまで「ああでもない、こうでもない」と考え続けてきた『三島由紀夫論』のあとがきで「結局、引っ込みがつかなくなったんでしょう。」と身も蓋もない意見を持ち出すことになってしまったのだ。

 三島の死そのものは「首が取れたから死んだ」とまずは言えよう。

 では何故首が取れたのか、そのことを平野は「自分の言葉の奴隷になった」と締めようとしているように見える。

 それはまあよかろう。

 しかしこれは何なのだ。

 しかし、敢えて無体なことを言うなら、私は、もし本書を三島が読んだなら、自殺を踏みとどまったかもしれないという一念で、これを書いたのである。
 私はやはり、三島という人に会って、話をしてみたかった。この思いは、今も強く持っている。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

三島(守護霊) うーん。うーん。

平野(守護霊) どなたですか?

三島(守護霊) ……魅死魔幽鬼夫だ。

平野(守護霊) 三島さん? 私は平野啓一郎と申します。『三島由紀夫論』はお読みいただけましたか。

三島(守護霊) わたくしはねその『三島由紀夫論』に関しては特に阿頼耶識の話など大変興味深く拝見させていただきましてね。確かに感心させられました。しかしですね、これは論としてはいかにも不完全なものでしてね、特に引用を間違えていたりしてはいかんとこう思うわけなんですよ。
 

三島(守護霊) それから全体といたしましてはですね、非常に意図的な作為というものを感じました。要するにわたくしの作品に書かれていないことが、さも書かれているかのように書かれている。わたくし自身の記憶違いかと思って何度も付け合わせをして見ましたがね、やはりそれはないわけですよ。そこで考えますよね。この人は何故こんなことをするのかと。何か無理やりにでも三島由紀夫論というものを捏造したいその目的は何なのかと。金か、とまずは考えましたですね。人間だれしも金を欲しがりますからね。それにしても多すぎますよね。捏造が。それでこうも考えたんです。彼は世間を欺いてないものをあると信じ込ませたいのかと。芥川龍之介がやりましたね。『奉教人の死』で元ネタをあると見せかけてないと欺き、本当はあったというわけなんですが、薄田泣菫までは騙しました。芥川の悪いところは最後まで種明かしをしなかったんですね。ですから今でも元ネタはないと信じている人もいるんじゃないでしょうか。

三島(守護霊) しかしこの『三島由紀夫論』の一番駄目なところと言えば、基本的に三島由紀夫の天皇というものがどういうものなのか全くわかっていない点にあるんでしょうね。その原因としてはやはり基本的な読解力の問題があります。

三島(守護霊) そして表現力の問題もあります。

三島(守護霊) そして記憶力にも。

三島(守護霊) つまりこのように読解力不足と頼りない記憶力と非論理的な表現力がだらしなく結びついてしまった結果、ここで取り上げられたすべての作品の解釈は基本的に全部間違ったものになってしまっていて、そもそも三島とはなんぞやと語る前提さえできていないわけです。するとどうなりますか、とにかく三島由紀夫論を書きたい、書かねばならぬという存念ですね、これが転倒して「書けるはずだ」「書けたはずだ」と明後日の方向にねじれてしまうんでしょうね。しかも大変残酷なことに彼の周りにはちょうちん持ちしかいない。ここは違いますよと言ってくれる本当の味方というものがいない。一人いますがね、小林十之助というチンピラですけどね、もう九十何回かこの三島由紀夫論の批判をしておりましですね、そりゃあまあ、どこがこうとはいちいち申し上げませんけどね、「書けたはずだ」という妄想をいちいち否定していっていますね。こういう本当の味方を信用しなくてはならんとわたくしは考えますね。三島由紀夫がお可哀そうなんて言って革命が成り立ちますか? 

 まあ真面目な話、三島が自分の言葉の奴隷となって死んだのであれば、平野啓一郎の『三島由紀夫論』に奴隷解放の効力はなかろう。

 仮に三島由紀夫を説得したいのなら『花ざかりの森』や『うたはあまねし』の世界に三島由紀夫を引き戻すしかないと私は思う。戦前の三島作品を掘り下げない平野啓一郎の『三島由紀夫論』にはその方向性も見えない。

 一体平野啓一郎はどんなことを三島由紀夫に告げ、どんなふうにして改心させられると考えていたのであろうか。

 この妙な自信というものが私には不思議なのである。

 確かに嵩はある。

 あるのはそれだけではないか。

 結局平野啓一郎は自分の三島由紀夫論を客観視できていない。「もし本書を三島が読んだなら、自殺を踏みとどまったかもしれないという一念」は単に無体なだけではなく、やはり三島由紀夫に対して無礼な考え方なのではなかろうか。

石原慎太郎(守護霊) そりゃあんた、まあ、あんたっていつちゃ失礼だけれどもね、平野君、君の書いたものはありゃ、卒論ならやり直しレベルだな。それを、三島に読ませたいなんて言うのはさすがにおこがましいとは思わんのかね。三島が引用ミスを見つけたらそれこそ切腹ものだぞ。君のやったことは徒爾、徒労だ。それが三島のメタファだとでも言いたいんだろうがその魂胆ごと三島は嫌うだろうね。君にできることはとにかく真面目に一生をかけて三島由紀夫論を書き直すこと。ほかにゃあ何もありゃしないよ。

 まあ、色んな守護霊にいろんな言い分があるものだ。

 また細かい指摘になるが、196ページにはこう書いてある。

 現実には、三島の死は、収と峻吉との生の実践によって齎されることになる。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 その峻吉について194ページでは、こう書かれていた。

 戦後社会の中で「行動」の大義を持てず、ボクサーとしての栄光と挫折とを経験した後、失意の中で右翼活動家へと転身していく。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 三島のどこにスポーツの栄光と挫折があんねん?

 ボディ・ビルによる肉体の鍛錬により、存在の実感を手探りする彼は、被虐を通じてのより確実な存在証明を求めてマゾヒズムに転落し、女と「風変りな情死」をする。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 この二つが合わさって、どこに思想があんねん?

 でマゾヒストの情死をどうやって止めんねん。ほんまもう、あほくさいよって、屁こいて寝たろ。

[余談]

 パソコンが壊れた。

 まあ、こまるね。

 どうするかな。

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