記憶の汚染が起きている 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む69
根本的な帰属の誤り
認知バイアスというのは誰にもある。過誤記憶というのもその一つであり、根本的な帰属の誤り同様頻繁にみられるものだ。
昨日私は、
という518ページの記述が間違いであることだけ示した。
それはかなり深刻な間違いであり、脳に深刻なダメージ(三日間寝ていないなど)があるのではないかと本気で疑っている。
それは520ページに書いてあることと付け合わせると、決して冗談でも大げさな話でもなくなる。私が彼らのうちの誰か、つまり平野啓一郎とそのゆかいな仲間たち、および小林秀雄賞の審査委員および関係者の身内か友人であったなら、直接プラスメッセージで休養を促すだろう。
そこにはめまいが起きそうなことが書いてあるからだ。
やはり平野啓一郎とゆかいな仲間たちは確かに『暁の寺』の中にあったものとして東京大空襲の巨細な描写をどこかで確実に読んだ、と思い込んでいるのだ。そしてその記憶を『仮面の告白』及び『金閣寺』と見比べて、その相違点を確認しているのだ。
しかし何とも恐ろしいことに、『決定版 三島由紀夫全集』の『暁の寺』にはそれがない。あるかないかで言えばない。この現実とどう折り合いをつければいいのであろうか。
実際平野が見たものは『決定版 三島由紀夫全集』の『暁の寺』の中にある記述と合致しているようだ。
こう平野は書いているので、
この143ページから144ページにかけての記述の中から、何かを拾ったことは間違いない。しかし微妙にずれがある。
〇 ところどころに焼ビルを残した新鮮な焼趾
✖ 辺り一面の焼趾
※145ページに「見わたすかぎり、焼け爛れたこの末期的な世界は」とあるので解釈の仕様によってはこれは間違いではないともいえる。しかし本郷の家は焼けていないので、この表現そのものはやや抽象的に捉えるべきであろう。
〇 それが阿鼻叫喚といふものだと、本多はあとから心づいた。
✖ 正面から描かれた「阿鼻叫喚」
※ここで本多は声の記憶を後で意味づけしている。本来の阿鼻叫喚は「さま」であり、ここでは視覚情報に欠いている。「本多とはほとんど無関係な出来事として示されている」という表現と「正面から描かれた」という表現は微妙に矛盾している。
〇 機械的化学的な、薬品工場の匂ひを加味したやうな、この焼趾の匂ひ
✖ 死臭
※私がある方から聞いた話では東京大空襲では効果的に安価に丸焼きにするために焼夷弾の前に重油が撒かれたということである。そうなると「機械的化学的な、薬品工場の匂ひを加味したやうな」という表現はよりリアリティのあるものである。『断腸亭日乗』では確認できなかった。
一般に「死臭」とは腐敗臭のことだ。私は病院のエレベーターで今しがた遺体を運んだかのような強烈な死臭を嗅いだことがある。また二階の窓まですべて開け放たれた一軒家から甘ったるい臭いを嗅いだことがある。化学的な臭いでもないし、とても馴れられるものではない。
……とそう大きな隔たりのない、伝言ゲーム程度のずれがある程度のこと、のようにも見えなくもない。しかしこれが全体として「かなりのページを割いて東京大空襲が描写される」と見えるのであれば、自己欺瞞といった平野の性格ではなく、彼がどういう状況に追い込まれてこんなことになってしまったのか、その外部要因をこそ疑うべきではなかろうか。
勿論彼が小説家であるがゆえに短い言葉から猛烈にイメージを拡大させ、巨細な描写を自分の中で創り上げてしまったという可能性はゼロではない。しかし平野啓一郎の勝手に創り上げたイメージが、誰かに伝染することがありうるだろうか。
合理的に考えるとこういうことは、平野啓一郎が『暁の寺』そのものを読むのではなく、誰かが拵えた間違えたレジュメを参照した場合に簡単に起こりうる。それがレジュメでなくてもいい。
例えば三島由紀夫がこう言ったとする。
こう書かれていたので私は蓮田善明の『鴨長明』では鴨長明が死体を一つずつ数える場面があると思い込んでいた。そしてものすごい数の死体を数える理屈なので、その場面はかなり長いと思い込んでいた。しかし実際にはそういう場面はない。
つまり、
編集者A あの東京大空襲のシーンなんか凄かったじゃないですか。渋谷なんかまる焼けで。
編集者B そうそう。死臭の下りなんかやたら生々しくて気持ち悪くなったよ。
編集者A 結構長々と書かれてましたよね。
編集者B 長いね。長いし細かいよ。
編集者A 阿鼻叫喚でしたよね。
編集者B 阿鼻叫喚だよ。
平野 ………。
こんなことがなかっただろうか。庇い過ぎか。
カルマの法則
平野啓一郎はどういうわけか仏教用語には詳しく、その観念的な議論には付き合うものの、『暁の寺』に現れた現実的な因果応報には触れようとさえしない。しかしこのカルマの法則は観念としての仏教とシンメトリーを成しているところである。
ものには言い方というものがあるだろう。聞き流してもいいし、「そうかね」とでも言っておけばよいものを、「ただちに打ち摧いてやるのが親切といふものだつた」とは本多は他人に対していささか傲慢すぎやしないだろうか。そしてこの態度は明らかに認知的不協和を見せている場面である。
この「領略すること」は「領略するため」に改めた方が良い。あるいは「結構の目的」、「結構の意図」に改めるべきあろう。
こうして余計なことを言ってしまったので、本多は当然菱川に反撃される。
菱川は詫びているようで、わざわざどう考えてもあり得ない訳しまちがえで仕返しをしたことを告白している。
あの世とこの世のからくりに因果応報の仕組みがあるかどうかは知らない。しかし現実には世の中はこの程度にリアルな因果応報の仕組みの中で動いていく。
ミスは仕方ない。
ミスは改めればいい。
ミスならば。
しかし居直ってしまった瞬間にミスはミスではなくなる。
そのふるまいは必ず手厳しい報復に会うことだろう。
戦時中
繰り返しになるが十三章から十九章まで、日米開戦直後から東京大空襲の前まで、本多はほぼ身体性を失い、輪廻転生の議論だけが続いていく。仮に兵隊にとられなくていい年齢であれ、日本国民である以上(毎日お茶会を開いていた高貴な方々は別であるが)、何らかの形で戦争に関わらずにはいられなかったのが戦争だった筈だ。しかし本多はまるで何の活動にも参加せず、ひたすら本の世界にいたかのように書かれている。
この輪廻転生の議論そのものはいくつか平野啓一郎の『三島由紀夫論』でも拾われているわけだが、約四年間の本多の生活のなさについては言及されていない。ここはまるで十二章から二十章へタイムスリップしたような感覚になる構成であり、まさに年代記的記述を回避した仕掛けなので、その時間の表し方に関しては何か能動的な指摘があるべきところだったであろう。
三島由紀夫自身の戦時中の体験と重ねてみれば、それはまさに『古今集』などを読むしかなかった時期でもあったわけだ。昭和二十二年に出たバルザックの『風流滑稽譚』という本のあとがきに「戦時中は紙がなくてなかなか本が出せなかったがやっと出せた。戦時中は皆本を読みたがっていたのでやっと本を出せてうれしい」という感慨が綴られていたのを覚えている。そんな時代に『暁の寺』に書かれているような優雅な研究が可能だったのかどうかは別として、例えば三島由紀夫自身にとってみても戦争とは、まさに本の中に逃げ込むことでやり過ごすべき事なのではなかったか。
ところが平野はこんなふうに書いてみる。
何十回と読み返しても、この文章の前半部粉が解らない。後半はただロジックとして「空襲は受動的戦争」という妙な定義が取り出せるだけで、やはり三島の認識そのものに合致しているとも思えない。
日本刀を振り回す三島と『F104』の三島だけを見れば「三島にとって、戦争とは即ち、能動的で主体的な行為による「男らしい」戦闘体験であり」と言ってしまう人がいてもおかしくないが、この時平野啓一郎が見ているのは『暁の寺』なのだ。そこで本多は繭籠る。まあ、見事に。
その本多を見ながら「三島にとって、戦争とは即ち、能動的で主体的な行為による「男らしい」戦闘体験であり」という理屈が出てくるとしたら、どこかで記憶の汚染が起きている可能性がある。
あるいは希望的観測なのか。
少なくとも『仮面の告白』『金閣寺』『豊饒の海』から「三島にとって、戦争とは即ち、能動的で主体的な行為による「男らしい」戦闘体験であり」などという考え方を見つけ出すのは困難であろう。平野が引いている通り、
本多は愛国的行為に無責任な拍手を送っており、目覚ましい行為と肯定もしてているが、それは能動的ではありえない他人ごとなのだ。三島自ら将校にならんと志願したわけではなく、受動的に徴兵検査を受けさせられた。能動的に主体的に戦闘行為に参加しようとしていたわけではない。
平野の見立てに関わらずやはり『暁の寺』における十三章から十九章の本多の繭籠りには、戦争を「忌まわしいもの、迷惑なもの」と見做す三島の態度が現れてはいまいか。
昭和二十年五月二十四日と二十五日の一週間後、本多は渋谷の高台から駅を見下ろす。全く当事者ではない。それは四十七歳だった本多の四年後のことだとしたら、もう五十一歳にもなるのだからしょうがない?
昭和二十年六月二十三日、東京大空襲の一月後には、義勇兵役法が公布・施行されていて、
つまり激しい愛国心に燃えた本多が志願兵となり、男らしい戦闘に加わることは可能だったのだ。さらに言えば現実的には三島由紀夫も志願さえすれば戦闘に加わることが可能だったのではなかろうか?
このようにこの時期兵隊は再度かき集め状態だったのである。
で、三島は何をしていたのか?
少なくとも昭和二十年五月二十四日と二十五日の一週間後に本多を焼趾に立たせた三島由紀夫は「彼の年齢からは決定的に隔てられている」筈の戦争が間もなく急速に距離を縮めてくることを知っていた筈である。勿論徴兵そのものは寧ろより若年層に向けて拡大されることが現実的ではあったのだが、本多と違い三島は志願さえすれば前線に行くことが出来る状況にはあったのではないか。
従ってこの「三島にとって、戦争とは即ち、能動的で主体的な行為による「男らしい」戦闘体験であり」という表現は、現実的な兵役回避者三島由紀夫の徹底した女々しさをひっくり返って論うような、絶妙な批判になってしまっているのだ。
つまり厭味としては成立するが、三島の認識そのものを正確に捉えた表現としては認めがたい。そのあたりの細かいことはまだ説明しきれないが、明日説明しよう。何故なら、今日はちょっと用事があるからだ。
[余談]
確か三島は宮城事件には触れていなかったと記憶している。
まだ戦争の終わりを見ないで、『暁の寺』の第一部は終わる。紅旗征戎非吾事という藤原定家の心境が一番はまる気がするのは私だけなのだろうか。
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