見出し画像

男性の秘密 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む90

三島由紀夫は何故、あのような死に方をしたのか?


 この問いを後何度か繰り返さねば、平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読んだとは言い切れないような気がしている。私自身未だ「三島由紀夫は何故、あのような死に方をしたのか?」という問いに対する答えを一つに絞り切れているわけではないが、平野啓一郎は一応、こう答えているように読める。

 三島由紀夫は「天皇陛下万歳!」というという言葉に自分の存在の全体性を託し、生涯抑圧されていたエロティシズムを顕現させるためにあのような死に方をしたのだ、と。

 635ページに書かれた「結論」はそのようにまとめられているように読める。この結論の瑕疵については既に指摘して来たとおりである。細部がガタガタしていてネジが抜けていて「天皇」が何なのか解らないで結論だけまぐれ当たりで正しいなどということはない。

・十代の三島作品から「天皇主義」を取り出すことに失敗している。(第一期の作品の解釈を放棄している。)→従って十代の精神に「帰郷」しずっと隠ぺいしていた「天皇主義者」に戻ったという解釈は成り立たなくなる。「三島由紀夫は何故、あのような死に方をしたのか?」という問いの「あのような」の中の「天皇陛下万歳」が説明できなくなる。

・首が取れたことが説明できていない。
・七生報国の説明ができていない。
どこにどんなエロティシズムがあるのか説明できていない

 ただし一応自分の見立てを纏めたのは立派である。

 そういう意味において、この結論は平野啓一郎の『三島由紀夫論』という天をも畏れぬ不遜な題名のためにもその他の三島由紀夫論と比較して是非相対化してみなくてはなるまい。

 それにしても三島由紀夫を論じ『三島由紀夫論』と題する本を出すことほど無茶なことはない。
 コロナ前新宿のある大きな本屋さんで「三島由紀夫」で検索したらたしか385冊くらいリストアップされてきた。流通している本だけでそのくらいあるのだ。これを全部読もうとしたら大変だ。しかも三島由紀夫の命日になると毎年一冊か二冊は三島由紀夫関する本が出る。そうしたものを全部蹴散らしますよという覚悟がなければ『三島由紀夫論』と題する本を出すことはできない筈だが、厚顔であればできるようだ。

〈常軌逸した行動〉中曽根防衛長官(『朝日新聞』) 

〈三島さんは本気だったんだなあということだ〉開高健(『朝日新聞』) 

〈こういうことは単なる事件と簡単に考えてはいけない〉松本清張(『朝日新聞』) 

〈彼は結局内面の緊張に耐えられなくなって死んだのではないか〉井上光晴(『朝日新聞』) 

〈全く不思議なことを起したものです(絶句)〉有馬頼義(『毎日新聞』) 

〈彼はこれからの七〇年代の日本の運命の予言者になるかも知れぬ予感がする〉村上兵衛(『毎日新聞』) 

〈文学とは全く関係のないナンセンスなことだ〉山崎正和(『毎日新聞』) 

〈天才と狂気は紙一重〉佐藤総理大臣(『毎日新聞』) 

〈精神日本生かすため自決予期していた〉伊沢甲子麿(『読売新聞』) 

〈今回とった行動はもとよりかれの思想にたいしても批判はあるがいまは何もいいたくない〉石原慎太郎(『読売新聞』) 

〈直情しすぎた行動の美学〉竹山道雄(『読売新聞』)

(『資料 三島由紀夫』/福島鋳郎/朝文社/1989年)

 平野啓一郎にあと一冊何か読めというとしたら、まずこの『資料 三島由紀夫』であろうと思う。これはいわゆる三島由紀夫を論ずるための基礎知識を網羅したような本で、外の三島関連本が見落としている情報が詰まっている。

 さて『資料 三島由紀夫』よれば三島由紀夫の死を受けて翌日の反応はこうである。まだ詳細な情報が伝わらないなか、三島由紀夫割腹自殺、断首という程度のニュースに対して、とにかく何か一言、と求められての声だ。たしか澁澤龍彦ら何人かはしばらくノーコメントで、時間をおいてコメントを発していたようだ。

 この後石原慎太郎は「無理してくっついていた首と胴体がとうとう離れてしまった」と発言して三島ファンからは評判は悪い。しかしあれだけ可愛がられていたからこそ総監室に入れなかったのであり、この言葉からは楯の会などに三島由紀夫が奪われてしまった悔しさがにじみ出ていると私は思う。青島幸男が「オカマのヒステリー」と言ったのは単なる悪意である。

 石原慎太郎に限らずこの後多くの人々が繰り返し別の言い方で三島由紀夫の死について語った。佐藤総理大臣は「キチガイ」と言った。中曽根防衛長官も「狂ったのか」と発言した。中曽根康弘はその後、このように言いなおしている。

「全く遺憾な事態だ。三島由紀夫というような高名な作家が、法と秩序をみだして人を死傷したりするのは、常軌を逸した行動というほかなく、せっかくの日本国民が築きあげてきた民主的な秩序をくずすものだ。徹底的に糾弾しなければならない。彼の行動は、その思想に基づくものだと思う。彼の最近の三部作『春の雪』『奔馬』『暁の寺』を読んだが、こんどの事件は『奔馬』を地で行った感じだ。自分の思想を実践、美に昇華するという思想、陽明学にも凝っていたし、その”知行合一”をやったのだと思うが、世の中にとってまったく迷惑だ。自衛隊としては、今後とも節度ある防衛の教育を徹底させていく。」

(『三島由紀夫が死んだ日』/中条昇平/実業之日本社/2005年)

 自身も改憲論者であり、自衛隊の法的位置づけに関しては三島に近い考えも持ちながら、やはり「迷惑」というのは正直な感想だろう。

 平野の見立ては一応は三島の大義というものを認めつつまさに三島の個人的な都合というものを指摘している点で、大きなくくりの上では中曽根派の三島論と云ってもよいだろう。これをもっと低レベルで言えば「オカマのヒステリー」になり、三島の思想はともかくと括弧に括れば「薄汚れた模倣を怖れる」という司馬遼太郎のような言い方にもなろう。

 それを知ってか知らずしてか京大パルチザンの竹本信弘は「三島に先を越された。我々の陣営にも第二、第三の三島由紀夫を……」といったらしい。こちら側の考え方、つまり三島由紀夫の行動により「大義」を見る純粋な立場にやはり東大全共闘も含まれる。個々人の受け止め方は様々にあろうが、「三島先生の死を悼む」という立て看板が出たからには三島の思想はともかく「死なねばならない大義に身を尽くした」という行動として三島の死を評価しているということだ。

 前にも述べたように、きちんと読めば「憂国」は国家主義とも愛国主義とも関係ない。むしろそういうものに批判的な作品だとさえ読める。だから無自覚に「憂国忌」なんて名前をつけたのだとしたら、それは相当ヘンな事ですね。どういう意味での「憂国」なのかと聞いてみたいぐらいです。

(高橋睦郎が語る三島と大江の違い/『続・三島由紀夫が死んだ日』/実業之日本社/2005年) 


 しかし平野が12ページ序論で指摘している通り、

 他方、「天皇主義者」としての彼の行動の讃美者は、その文学に関心を向けなかった。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 いわゆる右翼の人達は最初は楯の会なんか「玩具の軍隊」とバカにしていたのに生首にびつくらたまげて「本物だったのか」と反省してしまう程度で、言行一致はどこへやら憂国忌では檄文を絶叫して腹を切らないという悪ふざけが平然と行われているらしい。「誰か俺と一緒に腹を切る奴はいないのか!」と怒鳴って、それですっきりして家に帰るのだからこちらもたまげたものである。

 もう一つは、非常に個人的な理由ですけれども、僕はこれからの人生でなにか愚行を演ずるかもしれない。そして日本じゅうの人がばかにして、もの笑いの種にするかもしれない。まったく蓋然性だけの問題で、それが政治上のことか、私的なことか、そんなことはわからないけれども、僕は自分の中にそういう要素があると思っている。ただ、もしそういうことをして、日本じゅうが笑った場合に、たった一人わかってくれる人が稲垣さんだという確信が、僕はあるんだ。僕のうぬぼれかもしれないけれども。なぜかというと、稲垣さんは男性の秘密を知っているただ一人の作家だと思うから。

(『三島由紀夫おぼえがき』/澁澤龍彦/中公文庫/昭和六十一年) 

 三島はここで「政治上のことか、私的なことか、そんなことはわからない」と云っているが「自分の中にそういう要素がある」と云っているのでやはり私的なことだと本人は認めていた可能性は高い。とくにその秘密が稲垣足穂に託されたとなればキーワードは「少年愛」に絞られてしまう。それはランチタイムにCoCo壱番屋に入った瞬間にランチがカレーに絞られてしまうくらい確実なロジックだ。

 あなたの日本刀ごのみも、蟹の爪、蟹の手足、蟹のハサミ、その動かし方、歩き方に対する嫌悪の念を克服する過程の、一つのあらわれだったかも知れない。やくざの若親分に扮して映画に出演したさい、「自分の弱点(臆病)がヒョイと出てしまっていた」とくやしがっていた。だからこそ、あなたは軍人、武士、いさぎよき死者になるために、別の自己になるために、一種の快感をもって自己を鞭打ったのでしょう。聖なる若者(もちろん美少年でなければならぬ)が、裸体で縛られ、多数の矢を射ちこまれている画が、あなたは好きだった。身うごきならず、しかも、ほれぼれするような肉体をさらして、もだえくるしみ、しかも矢はできるだけむごたらしいやり方で、射ちこまれなければならなかった。自己嫌悪を克服して自己陶酔に転ずるためには、まず自分が自分をいじめ、いじめられ、いじめあい、いじめぬくこと。しかも次第に、いじめ薬の量をふやし、はては限量を越えるまで……。あらかじめ肛門に挿入しておいた卵を客の前で生み落として、コケコッコウと啼き声を発する白人を描いたとき、禁色の「禁(きん)」をこじあけるさいの精神の骨のきしみを感じ、身ぶるいしたにちがいない。あなたの同性愛にさえ、私は一種の、屈辱突破の努力。弱者から強者への一瞬の飛躍を感じとります。「禁色」の日本青年は、白人男に強奸される。強奸されるくらいなら、強奸した方が正しいと、おそらくは「葉隠(はがくれ)」はあなたを叱りつける。優雅を尊ぶあなたは、しかし普通の意味の強奸者にも殺人者にも、なれはしなかった。あなたの宣言と、あなたの決意にもかかわらず、あなたは一人の敵(男)をも殺すことなく死んでいきました。

(『三島由紀夫氏の死ののちに』武田泰淳/中央公論特別編集・三島由紀夫と戦後所収/中央公論編集部/2010年)

 この点、三島由紀夫のエロティシズムを最も丁寧に眺めているのがこの武田泰淳と奥野健夫である。

 首がころげ落ちる、その時三島由紀夫は彼が絶賛し≪中央公論≫に推薦した深沢七郎の『風流夢譚』の中の皇族たちの首が転がる情況を思い起こしたに違いない。三島は事前にNHKと≪サンデー毎日≫の記者に手紙をわたす手配をし、今回の事件の一部始終を報道させるようにし、転がった自分の生首まで撮影させ、それが大新聞に掲載されるように意図したのだ。確かに大江健三郎が、『新しい人よ眼ざめよ』で指摘しているように、三島由紀夫の意図は、多くの人々がとらわれている檄文にはなく、生命をかけた肉体(パフォー)演技(マンス)にあるのだ。古式に則った切腹、出血、最愛の同志による介錯、生首が転がる、それを血まみれのまま床に立てて、首尾よく新聞に掲載されるということを願っていたのであろう。その生首は写真で見る限り、実におだやかで端正な顔立ちをしていて、思わず脱帽させられる思いであった。その奥に三島由紀夫の単純で真の目的がある。この芝居がかった装置の中で皆にみつめられながら〈至上の肉体的苦痛〉を味わい、〈至福の到来を招く〉体験を意識し、その極限で死という無意識の世界に転化することであった。

(『三島由紀夫伝説』/奥野健男/新潮社/1993年)

 平野啓一郎は少なくとも奥野健夫の『三島由紀夫伝説』は参照していた筈だが、どういうわけか三島の死におけるエロティシズムの要素をかなり具体性を欠く形で「生涯抑圧されていたエロティシズムを顕現」とまとめているように見える。

 どこがエロティシズムなのか明確につかめていないのではなかろうか? それでいて建前としての大義を完全に切り捨てることもできず、青島幸男程度の批判性もない。

 三島の死にもっとも心を痛めたものほどこの点はきっぱりしている。

 さて、面白いのは、三島由紀夫が死んでから書かれた寺田透の「豊饒の海」(昭和四十七年)という文章である。そのなかで、寺田氏は或る雑誌の座談会で、武田泰淳氏や三島氏と同席した時のエピソードを語っているのである。その席に蟹が出た。それは「甲羅が饅頭型にふくらんだ、一口で食べられる位の小さな蟹で、一皿に二匹ずつ、から揚げにしたのが添え物として載っていた」。寺田氏はその蟹を食ってしまった。たぶん、三島氏の皿にまで手をのばして食ったのであろう。これは私の想像である。
「僕が食べちゃったのは気を利かしたからではなく、蟹を見るのがいやだとか好きだとか、愚にもつかない煩瑣なことで時間が失われるのを嫌ったまでである。大体蟹という字を見るさえぞっとするという三島氏の蟹ぎらいはどの位深刻なものだったのか。(中略)父君もいうように、見えなければそれですむ視覚の問題だったのだ。」
 この文章を初めて読んだとき、私は思わず腹をかかえて笑ったものだが、やがて笑いがおさまると、三島氏がいくらか気の毒になった。これはこのままバルザッシアンたる寺田遥の、三島文学に対する痛烈無比な批評ではないか、と思ったからである。しかしそれにしても、生涯にわたって蟹にこだわりつづけたひとの目の前から、事もあろうに蟹の存在を消滅させてしまうのは、ちょっとばかり酷ではないか。寺田氏はかつての「三島由紀夫論」とまったく同じ論法で、またしても三島氏の「感情的お芝居」(寺田氏の用語)に冷や水をぶっかけ、私たちをあっけらかんとした笑いのなかに突き落としたのだ。何という意地悪なひとだろう。……私がここで言う蟹とは、もちろん比喩的表現より以外のものではないが、たしかに三島氏には一生涯、蟹にこだわりつづけたと思われる節がなくもない。たぶん、三島氏は現実を総括的に正確に眺めようなどとは、一度として考えたことがなかったにちがいないのである。いわば蟹を通してしか、彼は現実と係り合おうとしなかった。その現実と係り合う接点は、感情的お芝居をはじめとして、あらゆるナルシシズム的陶酔を成り立たしめる領域だった。というのは、彼は死ぬまで、自分が現実に存在しているとは感じられず、自分の肉体的な存在感を目ざめさせてくれるもののみを、ひたすら求めたらしいからである。 

(『三島由紀夫おぼえがき』/澁澤龍彦/中公文庫/昭和61年/p.31~32)

 パフォーマンスがナルシシズムから発現していることは否めない。死を賭したパフォーマンスをナルシシズム的陶酔として眼を細く眺めることは批判ですらない。

 理屈は聞いてやらねばならない。

 中村光夫との対談「人間と文学」の中で、三島は、〈現実はこれを言葉で精細に表はさうとすればするほど、筆者の創作になつて行くといふ性格を帯びてくる〉(「仮構と告白」)という中村の文章をとりあげ、作家はこれを逆転させなければならず、〈虚無はこれを言葉で精細に表そうとすればするほど、現実になって行くという性格を帯びてくる〉というテーゼこそ、真に文学の勝利なのだ、と言い、その旗手としてジャン・ジュネの名をあげている。実際、これこそ三島世界の建築学であり、都市工学であるのに、人々は相変わらず、旧市街の迷路に踏み迷い、折角の私小説の大革命も、ほとんど了解しなかったらしい。

(『三島由紀夫 神の影法師』/田中美代子/新潮社/2006年)

 あらゆる人々の心の中にさまざまな三島由紀夫というものを突き付けたものが「何もない庭」であり、それが三島由紀夫が成し遂げた文学的勝利なのだとまずは云ってやらねばならないだろう。

 三島由紀夫くらいの天才だと仮構の現実化に留まらず、現実の多様化も成し遂げる。

 三島由紀夫(一九二五~一九七〇)は大変なカニ嫌いだった。作家の座談会でカニ酢が出ると、真っ青になり「それを下げてくれ」と編集者にどなった、という。
 ところがカニ嫌いの三島も、どういうわけかエビは大好物だった。自決する前日、三島は一緒に死んだ森田必勝とともに、赤坂のエビ料理専門店「鶴丸」で別れの宴をはった。  
 大きな種子島産の伊勢エビを二人は平らげて、死へ赴いた。

(『昭和超人奇人カタログ』/香都有穂/せきた書房/1990年/p.219)

 三島由紀夫くらいになるとお化けも出せる。三島が最後に隊員らと飲食したのは新橋の鶏鍋屋「末げん」である。
 これくらいの出鱈目を書かないと決定版を名乗るのはまだ早い。

[余談]

岩波書店からは何の連絡もないな。

ほったらかしかな?


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?