見出し画像

三島由紀夫の『花ざかりの森』をどう読むか⑤ ものが違う


 母にわたしは、たっといものの、うらがれではない、人造の葉を鮮やかにとりつけた。——衰頽でありながらまだせん方ない意欲にあふれている、そんないくらかアメリカナイズされた典型をよんだのである。それはどのみち、衰頽のひとつには相違なかったであろう。しかしもっとしぶとい、いきいきとした繁栄の仮面にあまりにもよく似合った。かの女はじぶんのなかにあふれてくる、真の矜持の発露をしらなかった。もはや貴族の瞳を母はすてたのである。それをば借りもののブウルジョワの眼鏡でわずかにまさぐった。が、この眼鏡はあくまで借りものだ。母はその発露に「虚栄心」といふ三字しかよまなかった。虚栄心——ひと昔まえまで日本にこのようないやしい文字はなかった。わたしはそれをアメリカ語だとかんがえている……。扨て母は、それ以来すべてに「虚栄」という幻をみた。この幻は、いとも高貴なものを、もっとも卑劣な、にくむべき残忍なやり方で抹殺した。母は虚栄にきびしい目をむけたのではなく、さいごまで虚栄の摘出にきびしい目をむけたのであった。虚栄みずからは甘い目しかもたない。しかもその図太さがすべての高貴のきびしい目に優にはむかった。

(三島由紀夫『花ざかりの森』)

 あらかじめ言っておいたはずだ。

 わからないよと。

 漱石や鴎外なんかいくらひっくり返してもこんなものは出てこないよと。

 三島由紀夫はこの時まだ自分の言語能力をセーブするということをしらなかった。自分以外の普通の人間がどの程度の抽象化に耐えられるものかしらなかった。

 自分が特別だと気がついていないのだ。どの程度の言葉の揺蕩いの中に雅を感じ得るものかどうかを、近代以前の日本文学、万葉歌人に連なる千数百年の日本の伝統とはかりにかけていたのだ。

The "Americanization" of the Japanese language was not only a result of the decline of the Japanese language, but also a result of the Americanization of the Japanese language. It would have been one of decadence in any case. But it suited the mask of a more tenacious and vigorous prosperity too well. The woman did not see the true pride that overflowed within her. The eyes of the aristocrat were no longer in her mother's eyes. She only slightly glanced at them with a pair of borrowed Bourgeois spectacles, but these were only a pair of borrowed spectacles. However, these glasses were only borrowed. My mother had only three words to describe her expression: "vanity. Vanity - until a long time ago, Japan did not have such a nasty character. I think it is an American word. ...... Well, then, my mother saw the illusion of "vanity" in everything from then on. This illusion has obliterated the noblest of things in the most vile, abominable, and brutal way. She did not look hard at vanity, but at the final removal of vanity. Vanity itself has only sweet eyes. Moreover, her boldness was enough to meet the harsh eyes of all the nobles.

Translated with DeepL.com (free version)

日本語の "アメリカ化 "は、日本語の衰退だけではなかった。いずれにしても退廃のひとつであったろう。しかし、それはより粘り強い旺盛な繁栄の仮面にあまりにもよく似合っていた。その女性は、自分の中に溢れる真の誇りを見ることはなかった。貴族の目はもはや母の目にはなかった。彼女は借りたブルジョワの眼鏡をかけて、わずかに彼らを見ただけだった。しかし、この眼鏡は借り物に過ぎなかった。母の表情を表す言葉は3つしかなかった: 虚栄心」。虚栄心......ひと昔前まで、日本にはそんな嫌な性格はなかった。アメリカの言葉だと思う。さて、それからというもの、母は何にでも「虚栄心」という幻想を見るようになった。この幻想は、最も下劣で忌まわしく残忍なやり方で、最も高貴なものを消し去った。彼女は虚栄に目を凝らしたのではなく、虚栄の最終的な除去に目を凝らしたのだ。虚栄心そのものには甘い目しかない。しかも、彼女の大胆さは、すべての貴族の厳しい目に応えるのに十分だった。

DeepL.com(無料版)で翻訳しました。

 おそらくここに書かれていることを具体的に理解できている人間はひとりもいまい。ここには具体的なことは何も書かれていないからだ。

 ただこの結果として、

 母は父に勝った。

(三島由紀夫『花ざかりの森』)

 こう書かれる。

 あらかじめ言っておいたはずだ。

 古今東西の小説というものが持っている基本的な了解事項が通用せず、坪内逍遥の理解の及ばぬところ夏目漱石の文学論で捉えられないところにこの作品はあると言っていい。江戸ではない、もっと古い時代の言葉と繋がりながら擬古文でもなく、おおよそ起承転結や序破急と言った形式とは無縁で、源氏でも大鏡でもない、やはり現代小説ではあるが漱石、芥川、太宰を読んできたとも、勿論西鶴、紅葉露伴でもない、今今現れれば信じがたいことながら今書かれたと言われても信じざるを得ないようなルーツの見えない作品なのだ。

 仮に「三島由紀夫論」などというものが書かれるとするのなら、『花ざかりの森』を克服しなければならないというのが私の持論である。今思いついた。阿頼耶識なんかいくらひっくり返しても三島由紀夫の本質は現れない。ここを掘らねばならない。

 母にわたしは、たっといものの、うらがれではない、人造の葉を鮮やかにとりつけた。

(三島由紀夫『花ざかりの森』)

 書き写そうとして「母はわたしに」ではなく「母にわたしは」であることに漸く気がつくだろう。普通は「わたしは母に」であるべきところ、いや幼子が母に「とりつける」とは?

 そもそも「たっといものの、うらがれではない、人造の葉」とは?

 鮮やかに取り付けられるものとは何があるのか。

 そもそも母に取り付けられるものとは?

 人造の葉?

 この『花ざかりの森』の記述は虚栄心を何か具体的なものに置き換えても具体化しない。

 ここにあるのは言葉の揺蕩いなのだ。

 小説とは何かということについて考えてみよう。

 小説とは一面で、一つところにとどまることのない事象の変化を時間の経過とともに描写する作業である。

 また語り得ない事について語る作業でもある。

 内面や眞意といった存在するかしないか分からないものについて語るのは、内面や眞意といったものの実在を信じているからではない。単に内面や眞意という仮定を措いた時に見えてくる架空の現実を語っているのに過ぎないのだ。

 語ることの不可能性とは、あらゆる前提が仮定に過ぎないことと同じ意味である。三島はこの時点で既に、書くことの困難さの根源、書くことの不可能性にぶつかり、絶対の視座に話者を置きっぱなしにすることなく、時に日記に語らせ、曖昧にぼんやりと、本質的なことを語っている。

  三島論の総括としてではなく『花ざかりの森』だけに関して言うならば、やはりこれは実力だけをくっきりと見せつけたぼんやりした作品であって「いい文章」ばかりが目につき、矢鱈と関心させられる作品である。全くの傑物である。難しい言葉、覚えたての言葉を背伸びして使っている筈なのに、その箇所が凸凹していない。 

「鳴神はややをさまつてきたやうにおもはれる」

「まらうどはふとふりむいて、」

  など、気になる箇所はないではないが、それが凸とも凹とも言い切れないのだ。ぼんやりと引っ掛かる。しかし直ぐに忘れてしまう。川のせせらぎのように自然と穏やかな1/fのゆらぎを作り出したのか。 それにしても1/fってなんなんだ。 

 父は……(彼は種々の植物の品種改良やたぐいまれな生物の飼育に生涯をささげ、さまざまな閑人の協会を組織していた)……母に不満も怒りもかんじなかった。かれは敗けたからだ。

 秋のひと日、わたしはこんな父の姿をみたことがある。父は数人の園丁をしたがえ、黄ばんだ、はなだ色の畠のなかに、じっと空をあおいで立っていた。父の姿は、それはひよわで貧弱でさえあったが、豊醇な酒のような秋の日光のしたで、年旧りた、飛鳥時代の仏像かなにかのように望まれた。その時、紫の幔幕のようにうつくしい秋空いっぱいに、わたしはわたしの家のおほどかな紋章をちらと見たのである。

(三島由紀夫『花ざかりの森』)

 

 先ほどの「たっといものの、うらがれではない、人造の葉」が「種々の植物の品種改良」や「数人の園丁をしたがえ、黄ばんだ、はなだ色の畠のなかに」といったイメージと緩く幽かに戯れる。決して結合しない。「もっとしぶとい、いきいきとした繁栄」が「ひよわで貧弱」と対比される。それは母が父に勝つわけだ。

 読むことはできる。書けはしない。

化粧品賣場では粧つた女のやうな香水壜がならんでいた。人の手が近よつてもそれはそ知らぬ顔をしてゐた。彼にはそれが冷たい女たちのやうにみえた。範圍と限界のなかの液体はすきとほつた石ににてゐた。壜を振ると眠つた女の目のやうな泡がわきあがるが、すぐ沈黙即ち石にかへつて了う。

(三島由紀夫『彩繪硝子』)

 これくらいなら自分でも書けそうだというおごりをもっとも卑劣な、にくむべき残忍なやり方で抹殺してしまうのが『花ざかりの森』だ。

「瑪耶」とふいに苧菟がよびかけた。顔をそむけた、さうしてそれをおほうたまゝの姿勢で。「瑪耶」
「なんですの苧菟」
「君はほんとにそこにゐるのかなあ。なぜだか僕には、君がそこにゐないやうな氣もちがするのだ」

(三島由紀夫『苧菟と瑪耶』)

 これくらいなら自分にも書けるとまだ本気で思っているとしたら、あなたはただの莫迦だ。

 あきらかにものが違う。「さまざまな閑人の協会を組織していた」とは……。

 言っておくがここにはスノビズムや賺しではない、圧倒的な言語能力がある。何のごまかしもない。小細工はない。

 地肩が違う。

 これを真似することはできる。これを始めることはできない。これは三島由紀夫のスタイルですらない。『花ざかりの森』と『金閣寺』が同一人物の作品である驚きを味わったリアルタイムの同時代人たちはどれだけ困惑した事だろうか。

 ちなみにこれが第一章の終わり。

 とても終わる気がしない。

 つまり三島由紀夫論など、とても始まる気がしない。

[余談]

 泉鏡花や樋口一葉なんかはぎりぎり翻訳できそうだけれど、『花ざかりの森』の翻訳は……イタリア語と中国語であるのか。しかし詩として読まれるんだろうな。
 

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?