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三島由紀夫の『花ざかりの森』をどう読むか③ どちらから見て左なのだろう

 平岡公威少年の書いた『花ざかりの森』が「祖先との邂逅」の物語であり、その祖先が老人の肖像ではなく奇妙にも若い生き生きとした姿で顕れる序の巻に始まり、「その一」では夢とうつつのあわいのような追憶で始まることを見てきた。
 汽笛は夢で汽車に置き換えられる。汽車は電車にスライドする。

 そのころ子どもはよく電車のゆめをみた。

(三島由紀夫『花ざかりの森』)

 このスライダーにバッターはついていけない。ざるそばを注文したはずなのにウズラの卵がついていないことに当惑する関西人のように、汽笛、汽車、電車のずれに戸惑いながら「電車のゆめ」に付き合ってみれば、こんなことを言い出す始末だ。

 お客も運転手もいないその電車は闇の小路へまっしぐらにすすんできたのだ。

(三島由紀夫『花ざかりの森』)

 自動運転か。

 客がいなくては経営が成り立たない。

 しかしこれは「電車のゆめ」なのでそう杓子定規に考えることはない。

 子どもはあきらかに、病人の歯ぎしりのようなレエルのきしりをきいた。

(三島由紀夫『花ざかりの森』)

 ここまでに「喘息の発作」「線香の匂い」として現れていたものが「病人の歯ぎしりのような」という比喩によって、むしろ現実側の何かではないかともう気づかされる頃ではないか。
 この「電車のゆめ」の外側には誰か老人が寝ているのではなかろうか。

 そう気がつくと「電車のゆめ」を描きながらその外側に現実の老人を想像させるとは、なんとこましゃっくれた悪ガキだろうかと思わずにいられない。

 闇はテントのやうにふくれ、窓にむなしい灯をあかあかとつけた電車のまわりには、ぐるぐるまわすと色のついた火花の出る、あのブレッキ製のおもちゃの火花のような、赤やみどりの星がゆれていた。

(三島由紀夫『花ざかりの森』)

 ここにはスパークラーという高級なおもちゃを買い与えられたお坊ちゃんのちょっとした自慢がある。スパークラーありきの比喩で、もう今では殆どの人にとって何のことか分からなくなっている比喩だ。

 おもちゃの汽車そっくりのその古い市内電車は、(電車がとおる由もない細路の)門のまえを、すてきな響きをあげて走りすぎてしまった。……子どもは耳をすました。もうきこえない。夜汽車の、またとおい汽笛がする。だがいましがたすばらしい勢いでかけていった市内電車は、家の左の坂を若い流星のようにかけおりて、その反動で今ごろは、夜は灯したきいろい油障子を閉している火の見小屋の角を、まっしぐらに曲ってしまったのであろう。子供はいつか目をさましている。 

(三島由紀夫『花ざかりの森』)

 それでは脱線してしまう。「電車のゆめ」に交錯する夜汽車は、誰か人を乗せているのだろうか。それは国鉄なのか。E電を知らない小市民は、もはや油障子の記憶も持たないかもしれない。


 柱時計の秒針が吃ったさざなみのような音を立てている。しばらくの間へやのなかの置物が、みしらぬ高貴なもののようにみえている。時計がなる。その音への注意が、また子どもを夢のなかへとり戻してしまう。

(三島由紀夫『花ざかりの森』)

 音の鈍化、異化、音からの眠りの逆説。秒針の音のくぐもり、見慣れたはずの部屋の中の置物を見知らぬものに変えてしまう意識の薄れを、音によって眠るというあべこべの反応が柔らかく引き取る。

 このあいまいもことした「電車のゆめ」が追憶の中に最初にあられたものであることに私は驚く。

 何も事件はない。

 ただ子どもの傍らに眠る病気の老人の姿がほのみえるだけだ。

 しかし本当に驚くのは一行空いた次の一言だ。

 この丈たかい鉄門のまえに立つとき、そのなかに営まれている生活を想像することに、誰しもはげしい反撥をかんじずにはいまい。

(三島由紀夫『花ざかりの森』)

 意識はふたたび夢の中なのか。「この」と指示された鉄門は夢の中に出て来た。

 そのころ子どもはよく電車のゆめをみた。ひろい甃とおおきな鉄門と煉瓦塀との、家構は大きかったが、門前には黒っぽい細道がかよっていた。ゆめのなかではその路を電車がとおるのだ。

(三島由紀夫『花ざかりの森』)

 たしかにそう書かれていた。つまりこの鉄門は帰ることのできる夢の中の場所なのだ。子どもは何度もその夢を見て、門前の細道には何度も電車が通り過ぎたのだ。
 鼻の穴の中で小鳥を買う夢ほど退屈な夢はない。しかし平岡少年はこう書いてみる。「誰しも」と。「誰しも」と言われても夢の中の鉄門の前には、別の誰かが立つわけにはいかない。今のところ他人の夢は共有できないものだからだ。

 しかし私はそれが夢であるかどうか忘れて厳めしい鉄門を見上げ「そのなかに営まれている生活を想像することに、はげしい反撥をかんじ」させられてしまっていなかっただろうか?

 どうだろう?

 数秒前のことだ。そうでもないような気もするし、ずばりそうだ間違いないという感じがないこともない。

 私はいつのまにか他人の夢を共有させられてしまっていたのだろうか。

 唐草文様の鉄門はきっちりくぎられた前庭と鬼瓦のような玄関だけをのぞかせていた。その玄関の一棟が門に立つ人にむかって、居丈高な、ほとんど宿命的なあらがいをいどんでいた。煉瓦塀はやしきの内部のすべてを人の目からさえぎり、花の匂いだの、こわだかな笑いごえなどまで、その湿っぽさの中に吸収した。

(三島由紀夫『花ざかりの森』)

 この引用部のみでこれがゆめの中の話だと理解できる人はまずいまい。それはこれがゆめの中に写し取られた現実のモチーフのようでさえあるからだ。現実にそのような鉄門の屋敷が実在する体で、ここはそれがただゆめの中の景色として描かれているのでないとしたら「居丈高な、ほとんど宿命的なあらがいをいどんでいた」などと書かれることはあるまい。

 いやむしろゆめの中だからこそ「居丈高な、ほとんど宿命的なあらがいをいどんでいた」なのか。

 いずれにせよこの平岡少年は夢か現かわからない話に読者を見事に巻き込み、あり得ないほど鮮明におぼろげなゆめの世界を描いて見せる。この子がやがて褌一丁で日本刀を振り回す光景は私だけが見た悪夢に違いない。


[余談]

 クロームは仕様変更したのかな?

 なんか使い勝手が悪くなっている気がする。


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