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三島の核 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む89 

出る順平野啓一郎の『三島由紀夫論』の間違い


 あまりにも時間がないので最低限ここまでは必ず押さえておきたいというポイントを三つに絞ってみた。

 それは、

①「天皇主義者」の起源 ✖十代の精神  〇『風流夢譚』
②「天皇主義者」の正体 ✖憂国の義士  〇言行一致
③『豊饒の海』の結末  ✖呆然     〇記憶喪失

 最後は少し引っかかるかもしれないので少し補足しよう。


解脱とは


 平野啓一郎は『天人五衰』の最後の「解脱」は無理があるという立場である。では解脱とはどのようなものであろうか?

 天皇は解脱できるのか?

 あれこれ考えてみて、仏教的な嘘話に少しだけ付き合ってしまうと業(カルマ)から解き放たれたら解脱なわけである。煩悩がなくなると輪廻から逃れられる。本多は記憶も何もないところへ来てしまったのだから煩悩はない。円環的構造という構想からして松枝清顕の存在と共にすべてが無に帰したことになる。

 何かぴかぴか光って地響きでもすれば解脱のような感じがするかもしれないが、何もないというのはやはり解脱である。

 この何もない、については繰り返し述べてきた通り、「意味は目的から生じる」理論に基づく。

 いやそれしきのことを解脱と呼ばないでくれと仏教徒はいうかもしれないが、逆に「記憶もなければ何もないところ」というものを真剣に考えた時、やはりそれは物凄くあり得ないところなのだ。
 もちろんそこは三島らしい細工がしてあって、

 この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。

(三島由紀夫『天人五衰』)

 と書かれているので言われていることは本多一個人の「あなたの感想」であり、思念である。「記憶もなければ何もないところへ、本多は来てしまった」と書いて書けなくはないところ、作者は強弁することを避けた。ずっと「涅槃」「解脱」を意識して書き続けて、最後に腰が引けた感じがないでもない。

 それによく見れば蝉の声のほかには音がないのだから蝉は存在していて鳴いているわけである。であればこそ「記憶もなければ何もないところ」というのは客観的な庭そのものではなく、本多自身の心のありようだということがいえる。

 たしかに「記憶もなければ何もない」というだけで解脱というのは大げさすぎる感じはする。それでもっと平明に記憶喪失と呼んでみたのだ。平野啓一郎が「呆然」と捉えたものも、所詮は一瞬間意識の連続が断たれたような、その程度の姿であろう。

 問題はこの「呆然」と捉えられたものが本多の取り返しのつかない人生の終局に現れたということである。透はある日、俄然として我を取り戻すかもしれない。三十年か四十年、もうすっかり年老いて狂人の息子や娘たちに取り囲まれて、どうしようもない状態の中で、別様の生き方を選択しようとするかもしれない。

 しかし清顕の転生を観察するという人生の目的を今更剥奪された本多は、ただ呆然として、五分間休憩して、冷たいお茶でも飲めば元通りになる……というものでもあるまい。

 解脱、記憶喪失、呆然、それを何と呼ぶかは別として、養嗣子透という存在が意味を亡くし、歴史に関与しないまま、本多の認識者としての人生はここで終ったと言って良いのであろう。それは輪廻転生という嘘話からの卒業という意味でこそ解脱なのではないか。

 もう元に戻らない呆然ならそれはもう解脱でいいんじゃないのというのが仏教徒ではない私の意見である。最初聡子が嘘をついていると怒った本多だが、そんな本多が根拠とする戸籍や家系図というものは、実はこの世に存在しないのである。本多はうすうすそれを知っていた筈である。小説というのは所詮嘘話である。松枝清顕は存在しなかった。そんなものは存在しないのにいかにもある体で振舞ってきたのが本多だった。記憶のよりどころを失ってしまった本多は「書き終える」という珍しい終わりを迎えた作者と共にこの世からその存在を消してしまった。


 原始仏教と同じ根を持つ『ヨーガ・スートラ』ではヨーガの定義をこう述べている。

 ヨーガとは心のはたらきを止滅することである。

(『解説 ヨーガ・スートラ』佐保田鶴治 平川出版社 昭和五十五年)

 

 

 あくまで余談になるが、この『ヨーガ・スートラ』は、

 過ぎ去ったものも、未だ生じないものも、それ自体としては実在している。現実態には時間的位置の差別があるから、過去、現在、未来の三つの様態が生ずるのである。

(『解説 ヨーガ・スートラ』佐保田鶴治 平川出版社 昭和五十五年)

 などとやたら哲学的でもあるのに、

 サマーナ気を克服するならば、身体から火焔を発することが出来る。

(『解説 ヨーガ・スートラ』佐保田鶴治 平川出版社 昭和五十五年)

 などと三島由紀夫が夢中になりそうな面白いことが書かれているので、折角印度まで言った三島と出会えなかったのは残念の極みである。


心々ですさかいに


 ジャイナ教では真理は多様に言い表せるという考え方をする。しかしその修行においては「虚偽のことばを口にしないこと」が求められる。かなり虚偽の多い平野啓一郎の『三島由紀夫論』ではこの「心々ですさかいに」に関して個人の主観的認識は決して他者とは共有されないという思想の問題として解決しようとしている。

 その中庭が、いかに「浄土」的であろうと、本多は徹底的に孤独な虚無感の底に佇んでいることになり、浄福感からは程遠いということになる。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 ここで平野が「孤独な虚無感」と「浄福感」を対比させ、「なにもないこと」を「孤独な虚無感」と見做しているのは、これまであれこれと仏教の知識を披露してきた割にいささか俗なやり方に見える。起きた現象としては本多と聡子の間で昔話に花を咲かせることが出来なかっただけのことである。何もない庭はこれまでの識論のややこしい議論を排して素朴な般若心教的空思想に至ったように見えなくもない。それは孤独とか虚無という世界ではない。「浄福感」などというものもない。

 さらに続けて平野は三島が仏教的救済を選ばなかったとし「虚無に帰す」ことを「自己否定」と捉える。

 その成果を、必ずしも徒労と捉えていたわけではなく、寧ろ、徒労と知りつつ行う愚行の裡に、三島は、実存の可能性を賭していた。否定されるもののみが、その存在の絶頂の美を知ることが出来るという彼の思想に従うならば、『豊饒の海』は、この「なにもないところ」の一点に於いてこそ、その全体を否定され、それ故に全的に肯定される作品と見るべきであろう。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 問題は蝉は鳴いていてそれ以外には音が聞こえないということであり、太陽もあるということである。平野は矢張り「なにもないところ」が本多の主観的認識でしかないことを見落としている。自己否定によって実存できるのなら、蝉肯定されたからには蝉は実存出来なくなってしまう。

 そんな馬鹿な。

 結びが宗教的救済ではないこと。ここまではいい。

 しかしこの結末を実存の可能性と結びつけて論じるくだりは矢張り強引に過ぎる。本多の記憶はよすがを失った。

 あなたはどうか?

 が「心々ですさかいに」なのではないか。

 


再び「天皇主義者」とは何か?


 詩を書く少年であることを諦めてから三島の中に生まれた変化というものはなかなか掴まえ所のないものだ。

 終戦時まで三島は詩人だった。それが贋物だと気がついたという時期が曖昧なのだ。しかし実質的に『盗賊』以降三島は散文長編作家に転じているので、昭和二十三年から二十四年にかけてはなにがしかの変化はあったと見做すべきなのであろう。

 ところがむしろ三島由紀夫の戦後作品というものは『盗賊』を除けばほぼのりのりで、『憂国』より前の作品は実に楽しそうに書かれているのである。なんなら『憂国』でさえどこか楽しげなので呆れてしまう。

 三島が何故そんな楽しい世界を放り出して十代の精神に帰郷したくなったのかということは、本当に意味の分からないことに見えるのだ。第一その十代の精神において、平岡公威は贋物の詩人だったというのだからなお解らなくなる。ありきたりに散文作家として成功してよかったねでなぜいけないのか。

 そのあたりの流れが平野啓一郎の説明では

・入隊検査不合格
・生き残ってしまった者の苦悩
・蓮田善明への同化願望
・絶対の批評としての死

 といったすっきりした説明の中で上手く賺されているように思う。

 それにしても『英霊の声』が書かれるのは遅すぎ、戦後社会の批判も遅すぎる。
 三島の「天皇」は何か言い訳じみている。戦前の三島には天皇崇拝はない。

 阿頼耶識への関心も嘘くさい。しかし一番嘘くさかった楯の会の「行動」によって生首になってしまうのだから、いくらあれは自己弁護の死であって、三島由紀夫は天皇主義者でもなんでもないと云ってみたところで、どうしようもないだろう。

 生首を嘘つき呼ばわりしても仕方ない。

 ある意味で「主義者」とは、それが嘘か本当かはともかく、一つの旗を掲げて見せることだからである。「うなぎ」の幟が出ていて「本当はラーメン屋なんですけどね」と心では思っていたとして、注文すればうな重が出てくるのであれば、それは矢張りうなぎ屋であるという程度の意味で三島由紀夫は「天皇主義者」として死んだのであろう。

 ただはっきり言えるのはその生首から過去を照射するような形で天皇の隠ぺいなどというのは単なる誤りであるということだ。平野啓一郎の『三島由紀夫論』の裏表紙に書かれている、

 文学者としての創作活動と、「天皇主義者」としての行動とを一元的に論ずる。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 という目論見がそもそも破綻しているのだ。

 三島由紀夫の最期は「天皇主義者」に見えるがそれは『風流夢譚』事件という体験を契機として現れるもので、作品として現れるのは精々第四期のエッセイ『若きサムライのために』くらいのもので『葉隠入門』などで明らかなとおり目的は死で天皇は便宜である。


腹を切ったとて何になる


 平野啓一郎の論旨は「そこは三島がそう考えてのことだからその考え自体を反駁しても仕方ない」という程度に好意的で、三島にとっての自刃というものがあらゆるものの精算の意味を持っているというところはそのまま受け止め、そのロジックを無意味化する「自刃が行動を始めた時点での帰着点」という謎ロジックの方はあまり掘らない。

 三島があまり平然と「行動というのは二十歳で腹を切ってもいいんだから」と言ってのけるので、そこには「腹を切らなければ行動ではない」という屁理屈があることに誰も気がつかない。

 いや、一人気がついていた人がいたな。西部邁だ。『ファシスタたらんとしたもの』で述べられている通り、「三島を論ずる以上死を覚悟せねばならない」とピストルを手に入れた西部は三島の謎理論を言論にまで代入した。おでんを食べる以上大根と卵を食べなくてはならない。この理屈はまあ解る。しかし「腹を切らなければ行動ではない」とはどういうことか。

 実はこれは本多が勲の死に認める謎理論の変奏曲で「生きるためには死ななければならない」からの「腹を切らなければ行動ではない」という流れにあると見てよいだろう。

 なぜこんな屁理屈が生まれてきたのか。

 それは三島由紀夫が最初からひねくれていたからである。

 女のような弱い心で子供を殺したのに、自分のそのいけない性格の中に本当の幸福を見出すという謎理論、三島由紀夫はこの訳の分からない「ひねくれ」を原点として持っていた。ひねくれていなければ三島由紀夫ではないのだ。無理でなければ三島由紀夫ではないのだ。

 もしかしたら懲役十年の刑期と三年前にできた刑務所という数字の組み合わせも、平岡公威が敢えて用意した無理だったのかもしれない。


作品論から行動を論ずるとすれば


 敢えて文学者としての創作活動と、「天皇主義者」としての行動とを一元的に論ずるという無理を部分的に組み合わせてみると『若きサムライのために』(『太陽と鉄』)『葉隠入門』との言行一致としての行動と死というものは解りやすく結びついてしまう。

 その生と死の必然性を「テクストそのもの」の中からみいだしてゆく。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 これは無理だ。

 まず「生の必然性」などというものはなかろう。ただ意識して「何々のために生きる」「何々として生きる」という覚悟が三島由紀夫作品にはっきり表れたというものがあったとすればそれはやはり『うたはあまねし』なのではないか。だからもしやり直すなら『うたはあまねし』から『盗賊』の間のねじれを徹底して論ずるべきなのであろう。そもそも平野啓一郎は『豊饒の海』で「尻を向けられる今上天皇」というものを見逃しているので「死の必然性」は捉えられていない。

 このないものをさもあるかのように言って見せるのはいくら宣伝とはいえ嘘なのでやめてもらいたい。

 しかし『英霊の声』と『文化防衛論』や「三島憲法草案」の間にはかなりのねじれが生じていて「天皇」の取り扱いはかなり困難である。平野の指摘の通り『豊饒の海』全体を通して天皇は不在であり、特に『暁の寺』以降は完全に姿を消したと捉えるならば、三島由紀夫の文学者としての創作活動の結論において天皇とは日輪であり、今上天皇は勲に尻を向けられる存在ということになってしまう。

 一方三島由紀夫の行動と見做されるべき檄において、三島は「日本」のために死ぬと言っており、「天皇のため」とは言っていない。それで天皇陛下万歳なのでこれほど辻褄の合わないことはない。少なくとも『豊饒の海』で三島の死を説明することは無理なのだ。

 戦前の作品から天皇崇拝を持ち出すことは無理だとは何度も繰り返し述べてきた。しかし屁理屈を云うひねくれものであるという三島由紀夫ののようなものは見えてきた。屁理屈もひねくれ具合もかなりのものである。この屁理屈を云うひねくれものという性質を、開かれた皇室を歓迎し戦後日本の繁栄を生き生きと過ごす当時のごく普通の人々の中に投げ込んでみたら、あれこれあって、結局血まみれの生首が転げ落ちてきたというのが一元的に論じた三島論ということになろうか。

[余談]

 今日も何とか生きて書いた。もし明日も生きていれば書くことがある。しかし私が明日も生きているかどうかはまだ誰も知らない。
 何故ならまだ今日だからだ。


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