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それは眩暈ではないのか? 牧野信一の『闘戦勝仏』をどう読むか④

「此処が王の寝所であります。」といふ声で、悟空はいつの間にか目前の目的を忘れてゐたかのやうに、我(どつちがほんとの我心だか解らない位だつた。)にかへつた。
「では必ずともに頭布はお脱ぎ遊ばさぬやうに。」この言葉は何度も注意されて「それを承知で来たのに。」と、ふと悟空は「何だ、馬鹿にしてゐやがる。王や王妃の顔が見られない位ならいつそ診察も断らうか。」といふ気がした。が、今更引戻すわけにも行かなかつたので、返事もせずに渋々と寝所の中に進んだ。胸をワクワクさせて怖る怖る歩いて来た時の気持は、急にどこかへ消え去つてしまつて、心からの仁者になつたやうな気がして傲然と座つた。嘗て経験した事もない安らかな落着いた気分も出た。「仁を感ずると共にかくも衒傲の気を起すとは、何たる貪慾の勝つた浅ましい心だらう。」とも思つた。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 平野啓一郎の言うところの〈樹海体験〉は簡易に疑似的に追体験することができる。ドラクエウォークで一年ほど遊び、突然アンインストールしてみればいい。たちまちたいていの道路は意味を失い、意味とは目的が創り出していた幻だと思い知らされる。つい昨日まで祠があった場所から祠が消え、町中から怪物が消えうせる。この路地には「なにもない」と感じてしまう。ただの住宅街には目的が発生しない。世界は無意味になる。
 唯識とは言わないが本質的な自明な意味などというものはなく、そこに何かがあると認識するためには分別がなくてはならない。

 分別は〈私〉の場合、いつも〈私〉から生まれている。しかし牧野が書いているようにどっちが「我」なのか解らない別の「我」から別の「我」に引き戻されることが稀ではない。とてもではないが庄司薫の薫くんみたいに一連なりの意識でつながり続けることはできない。だからその時々で見えているものが違う。

 牧野信一は三島由紀夫のように難解な用語を振り回すことなく、識論を問うてくる。

 悟空は「今更引戻すわけにも行かなかつたので、」という同調圧力なのかモラルなのか曖昧なものに従い、「返事もせずに渋々と寝所の中に進んだ」結果として、「胸をワクワクさせて怖る怖る歩いて来た時の気持は、急にどこかへ消え去つてしまつて」と感情が変化し、「心からの仁者になつたやうな気がして傲然と座つた」と状況にペルソナを合わせてしまう。それでいて「嘗て経験した事もない安らかな落着いた気分も出た」とまで言う体験をしてしまう。
 ここで牧野は「我」などというものは状況に流されやすい当てにならないものであることを、全く淀みなしに説明しきって見せる。これはこれまで見せていたぐるぐると変化するセクシュアリティの変化同様、言ってみればやはり極端に自己分裂的な態度と言えなくもないが、もともと分裂していた自己がなんとかくっつこうとしているようにも見える。

 朱紫国に留まろうとしたのも自分の意思であり、そこには「考へる事」の自由の反映がある。しかし目的は「女々しくなりたい」「美しい王の手に触れたい」「人民から異様な化け物として扱われないようになりたい」「殺人、掠奪、姦淫」とふらふら変化して、やはりあらゆることの意味を曖昧にしていく。
 仮に「姦淫」が目的なら「心からの仁者になつたやうな気がして傲然と座つた」意味は、王に到達するための手段に過ぎないことになってしまう。

 このロジックは決してロジックとして硬直さを表すことなく、すかしっぺのようにただ曖昧に漂う。

 然し次の瞬間には、悟空のかゝる安価な理性も無智な妄想も……悉く、立処に消え去つてしまつたのであつた、悟空は失神してゆく己が心を取り止めることが出来なかつた、王の手に触れた最初の瞬間なのである、王の手は白珊瑚の如くに美しかつた、白瑪瑙の如き艶を持つてゐた。たゞそれだけなのである。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 サリンジャーの小説の主人公たちが最も恐れた失神、そんなものが突然やってくる。美に触れた瞬間の失神、それは皇后に拝謁して上気し熱を出した松枝清顕よりは突発的で大げさなふるまいではあるが、安価な理性も無智な妄想も消え去ってしまうのだから本当はふるまいですらない。はたからはどう見えるか解らないが、安価な理性も無智な妄想も消え去って、自分の考えなどというものが無くなってからようやく、悟空は一つの嘘のない猿になる。

 この失神は目的がないから意味を問えない。

 ええ、その時は何故かそうなったんですと他人ごとのように語るしかない。

 悟空が打ち眺めた王の手のあたりには、密香竜涎の香りが、晩春の紫の霞の如くふわりと包んで、薄紅に染つた爪の先で静かに咽んでゐた――あはれな悟空の想像では、この美しい手を透して王の美しさを想ふことは到底望まれぬことだつた。悟空の耽美の心の最後の形式ですら、王の指先にすら及んでゐなかつたのである。悟空の空想が如何に低い範囲で渦巻いてゐたかは悟空自身にも直ぐに解つた。
 王は錦繍の蓐に凭つて、恋病ひの女郎のやうに恥しげに悟空にその手を任せて居た。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 ここで牧野は不意に「悟空の耽美の心の最後の形式ですら、王の指先にすら及んでゐなかつたのである。」と少しく詩的な、そしてかなりロジカルな表現を差し出してくる。何の企みもないものがなかなか使いこなせないレトリカルな表現である。

 仮に三島由紀夫が〈神的天皇〉あるいは「美しい天皇」、または天照大神そのものに触れたとして、果たして「形式」と書くことができたかどうか。

 この「形式」の二文字で確かに『闘戦勝仏』は本物の文学になりおおせている。その一方で美しいはずの王を「恋病ひの女郎のやうに」とあらぬ方向にねじって見せる。まるで誰かにどうしようもないセクシュアリティの無軌道ぶりを咎められようとでもしているかのように、まるで「形式」の二文字など何でもない偶然の産物だと見せかけるように。

 この牧野信一という作家がこの次の一行に何を書いて来るのか、まだ誰も知らない。決して知ることはできない。何故ならここまでしか読んでいないからだ。


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