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それは家ではなく氏だ 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む96

 96って……。

 そろそろ疲れてきた。

 いくらbotでも読むのに疲れただろう。

 しかしまだまだ問題は山積みだ。

 もう少しだけ続ける。


天皇は裏切ったのか

 聡子と治典王との婚約が破談となった後、年中行事の御歌会始に参加した折、清顕は、自分に対する大正天皇の秘かな怒りを感じ取り、唐突に、『お上をお裏切り申し上げたのだ。死なねばならぬ』と考える。これは、かなり違和感のある場面だが、創作ノートには、「第二巻で天皇に裏切られるモチーフの裏返し」とあり、その伏線を企画していたようである(但し、この二・二六事件を彷彿させるエピソードは『奔馬』で実現されていない)。敢えて解釈するならば、この思いが「業相続」されたからこそ、飯沼勲はあれほど死を願っている、とも言えよう。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 平野啓一郎が言う通り『奔馬』において「二・二六事件を彷彿させるエピソード」は実現していない。「二・二六事件」が唯一の「天皇に裏切られる」エピソードのスタイルであるならば、『奔馬』において「天皇に裏切られる」エピソードは実現していない。
 では『奔馬』において「天皇に裏切られる」エピソードは実現していないのであろうか。

 これはあったのではなかろうか。

 それは国民の貧困である。

 国民の貧困が天皇の裏切りとは現在の政治下ではありえない発想ではあるが、当時の社会体制は現在とは異なる。

 三島由紀夫は大川周明の『日本二千六百年史』を読んでいた。

大川周明の日本歴史のやうに平安朝文化を優柔文弱で片付けてすんでゐるやうな世界に、日本がなつては大変。

(『師・清水文雄への手紙』/三島由紀夫/新潮社/2003年/p.75)

 この本は発禁処分を受け、幾つかの記事が削除された。その削除された記事の裡の一つに皇軍が大正七年の米騒動の際臣民に大砲を撃ったというものがあったとしたらどうだろう。


血盟団事件に続いて五・一五事件が発生した不穏な昭和七年

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 この事件は清顕の死後に起こり、『奔馬』はその後の世界を引き継いでいる。血盟団事件は少し毛色が違うが五・一五事件の背景にはやはり貧困と格差の問題がある。『奔馬』はその時代背景として、今上天皇がいるのに、何故か臣民が貧困にあえいでいる到底理解しがたい不可思議な日本というものを背負わされている。

 実際に米騒動の際皇軍が臣民に大砲を撃ったのかどうか私は知らない。しかし「皇軍が鎮圧」したところまではおおむね事実であろうと思われる。五・一五事件は二・二六事件ほど明白ではないが天皇親政のための昭和維新を目指していた。しかし天皇を取り換えようとはしていなかった。飯沼勲は洞院宮を担ごうとした(それは今の今上天皇は贋物で国民が飢えているから別の宮様を担いで親政を敷こうとこころみたということである。)計画が破綻した後、一人一殺のテロに計画を切り替え、そののち逮捕された。その裁判において飯沼勲は蹶起の理由を米騒動に始まる貧困問題から語り始めた。大正七年の米騒動は大正三年に閉じる『春の雪』と昭和七年に始まる『奔馬』の物語の隙間で起きているが、飯沼勲にしてみれば地続きの現在なのである。

 臣民は飢えていますよね、これが天皇の裏切りじゃなくて何なのですか。

 飯沼勲はこうはいっていない。ただ天皇の真のお姿は日輪だというだけである。事件として天皇の裏切りは起きていないようであるが、そもそも米騒動が起きたこと自体が天皇の裏切りである。米騒動を起こす穀物神とは何ぞやという話だ。

 何度も繰り返してきた通り、平野啓一郎にはこの飯沼勲のソラリズムの意味が全く理解できていない。天皇はいつのまにかいなくなったと思い込んでいる。飯沼勲は今上天皇を見限ったのだ。

・洞院若宮 若き日の傷心の思いでよりクーデターに参加

 「創作ノート」にはこんな文字があった。クーデターの案はなくなった。事件としての天皇の裏切りは起こらなかったが、貧困という天皇の裏切りは『奔馬』の中に明確に表れていた。ここが理解できないとソラリズムが理解できない筈なので念押ししておく。


靖国にはいない


 平野啓一郎の「Ⅲ 『英霊の声』論」において、特攻隊員たちの霊が靖国神社にはいないことの指摘がないことを書き忘れていた。月と地球の距離において神聖化されるものがどうしたこうしたという議論で思い出したので書いておく。

 月の裏側からでも地球の様子が丸見えなので距離は到達不可能性を意味しない。
 靖国問題はもう少し掘ろう。


古典的教養


 今回この「平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む」シリーズが完結しないのに無理やり並行して、「三島由紀夫の『花ざかりの森』をどう読むか」を少しだけやり始めたのは(これはすぐには完結しない。中断後再開する予定。)ここのところに三島由紀夫の本物の古典的教養を挟み込むためだ。

 にも拘らず、三島が飽くまで漢文の「対句」に固執するのは、一つに、その古典的教養の矜持故である。三島はこうした趣味を、殊に、他の戦後文学との差異化の一つとして強調しがちだった。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 ここで平野は「古典的教養」として漢文学を指している。確かに三島由紀夫は『美しい星』にさえさらりと「小学」を出してくる程度に漢文学というものにも親しんではいるのであろうが、やはり圧倒的なのは和語の教養である。真の矜持はそこにある筈なのに、プロの作家としてやっていこうと決めた『仮面の告白』以降、語彙としては平安以前のものが多少残ることは残るとしても、『花ざかりの森』で見せつけた天才ぶりはむしろ封印してしまったように思える。

 なにしろ『花ざかりの森』の凄いところはこれが擬古文ではなく、お手本そのものが見当たらないのに、古めかしく雅な日本語というバランスを維持しながら和語漢語洋語を自在に操り、決して破綻しないところにある。
 なお重ねればハナモゲラ感というものがまるでない。
 大人たちが慌てて天才と言い出したのも無理はない。
 これは褒めるしかないのだ。

 仮に三島由紀夫論が書かれるとしたらやはりこの文体論というものは必須なのではないかと思う。ともかく『花ざかりの森』は「万葉集」以降の連綿と続く日本文学の言葉を引き取り、近代文学を飛び越えて現代に突然現れた鬼っ子のようなもので、それがなぜ消えて、より硬直なものに置き換えられなくてはならなかったのか、『酸模』の女のように弱々しい心から始めて思想性の変遷を確認するとともに、古典的教養としての和語の行方も見極める必要があろう。

 この問題は単に鴎外の影響で片づけられる話ではない。鴎外でさえ『花ざかりの森』を読めば「これは……」と絶句したはずである。


定家卿について書きたい


 三島の最期は、市ヶ谷での自決と『豊饒の海』の完結との両方に於いて、非常周到に準備がなされていたが、この『日本文学小史』は未完であり、しかもだからこそ、藤原定家について書きたい*3と語っていた、彼のあり得たかもしれないその後の人生と連続している。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 この*3は注記に林房雄との対談、と説明がある。澁澤龍彦にも同じことを言っている。しかしそこには「いつかどうしても書いてみたい」というような、ある程度大きなものを指しているようなニュアンスがあったように覚えている。
 つまりそれが『日本文学小史』の続きであったかどうか、はなはだ怪しい。

 平野が書きぬいているようにすでに『古今和歌集』に関しては「古典主義原理形成の文化意志」とまとめられており、それが『新古今和歌集』至れば藤原定家について書いたことになるのかと言えば、そうとは思えない。
 あるいはそれは『明月記』か『六百番歌合』が基礎となる小説なのではないかと考えられなくもない。

 たとえば『六百番歌合』の主役は判者俊成で敵役が顕昭となるが、噛ませ犬はほぼ寂蓮で定家はあまり活躍していない。

 しかし俊成—定家ラインの「伝統」が形成されようとする一大イベントで実に面白い。俊成の組み合わせ方、判、顕昭の反論も含めて、歌論の可能性を巡る壮大な思考実験のようにも見える。

 当たり前のように受け取ってしまう「藤原定家について書きたい」という三島の言葉が「いつかどうしても書いてみたい」というものであれば、三島と定家の間にどのようなつながりがあるのか見極めたいところ。戦争中に『古今集』を愛読していたという以上に、三島由紀夫と藤原定家を結び付ける要因というのは特に見当たらないのである。

 いやあるな。

「皇室にしかないんですよ。ぼくは日本の文化といふものの一番の古典主義の絶頂は「古今和歌集」だといふ考へだ。これは普通の学者の通説と違ふんだけどね。ことばが完全に秩序立てられて、文化のエッセンスがそこにあるといふ考へなんです。あそこに日本語のエッセンスが全部できて居るんです。そこから一歩も出ようとしないでせう。一つも出てないですね。あとのどんな俗語を使はうが、現代語を使はうが、あれがことばの古典的な規範なんですよ。」

 こんなことを石原慎太郎に言っていた筈だ。

 ただ「新古今」の後鳥羽院は現人神にしていない。

家持の歌に神の歌からの人間の歌の訣別をみておられるのが、バイブルの天使墜落のやうな感あり、それをつきつめてゆくと新古今集の御主宰者である後鳥羽院も「人間の歌」の御主宰者にすぎぬ気がされ、文学の美学の上から申し上げる意味での「現人神」といふことばにもそぐはぬ気持がされました。

(『師・清水文雄への手紙』/三島由紀夫/新潮社/2003年/p.48)

見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮

 この定家の歌に三島由紀夫は「純粋言語の力」「存在しないものの美学」を見出している。「なかりけり」だからないわけだ。

 この辺りの思想性は『豊饒の海』でも掠められているように見えなくもない。
 私自身も定家は月の歌人だから、三島が「藤原定家について書きたい」と言ったとして、「あっそう」としか思わなかったが、平野啓一郎は「何故定家なのか?」と掘ってみても良かったんじゃないの。

藤原家


 と思ったら、もっと剣呑な方向に話を進めていた。

 『日本文学小史』の可能性は、『古事記』を除いて、ほぼ「天皇抜き」で書かれていたからこそであり、三島がもし藤原定家について書いていたなら、凡そ彼の『文化防衛論』の議論には収まりきれない、藤原家という歴史的存在に衝き当たらざるを得なかったはずである。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 これはなかなか面白いアイデアだが、ものの言い方としてそこは「藤原家」ではなくて「藤原氏」じゃないかな。それに、なに、鎌足まで遡るのか? そりゃ『藤原定家』でもなくなるな。

 少なくとも平野自身は鎌足まではいかないとしても道長あたりは意識してのこの意見なのであろう。確かに定家は道長の五代下の孫にあたるが、家系図をたどるのもそう簡単なことではない。果たして「藤原家という歴史的存在に衝き当たらざるを得なかったはず」とまで言い切れるものかね。

 いや、それはないだろう。(反語的帰着)

 むしろ高級官僚と歌人の二重生活、紅旗征戎吾が事に非ず、式子内親王あたりの話に留まることになるのではなかろうか。広げるとして万葉集と「古今集」の関係という縦方向よりも、実朝と万葉調とか、そういう話になるんじゃないかな。

※実際キーンへの手紙から見ると書きたかったのは「定家の生涯」のようだ。

[余談]

 それにしても平野君は和歌をやるのかな?

 本のタイトルは忘れたけれど三島由紀夫を和歌で読み解く

 これかな?

 こんな本とかも読んでみればいいのに。曖昧ながらどこか核心を突いた感じもある。

 そもそも定家について書きたいという人の歌の心を見ないでなんで三島由紀夫論なんて言えるの?

 身長一六三センチ。四十五歳だが三〇歳代の発達した若々しい筋肉。

(『資料 三島由紀夫』/p.183)

 これ、首が取れているのによく測ったね。

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