「同期的共感時代」における「非同時代的共鳴」―③
完璧に「共感」できる人など、この世にいない
大枠でタグ(=#)を振ったところで、「私」は見えてこない。では、数学的な素晴らしき知見、因数分解をするとどうなるのだろうか?
#中原中也 #小林秀雄 #川端康成 #有島武郎 #深沢七郎 #橋本治 #町田康 #川上弘美 …… #溝口健二 #木下惠介 #山田太一 #橋口亮輔 #原恵一 #今敏 #ジョン・カサヴェテス #フランソワ・トリュフォー #イエジー・スコリモフスキ #ロバート・アルトマン #ポール・トーマス・アンダーソン #デヴィッド・フィンチャー …… #George Harrison #The Small Faces #The Who #Steve Winwood #Paul Weller #フリッパーズ・ギター #フィッシュマンズ #エレファント・カシマシ #スピッツ #THE YELLOW MONKEY …… #ピエール =オーギュスト・ルノワール #エドガー・ドガ #アルフレッド・シスレー #ポール・セザンヌ #エドゥアール・ヴュイヤール #ジョン・シンガー・サージェント …… #岩隈久志 #嶋基宏 #鉄平 #草野大輔 #則本昴大 #松井裕樹 #林優樹 ……。
おお! なんとも固有名詞が増え、「情報量」が増した。いかにも「私」に近づいたようではないか。もしかしたら、これでどこかの誰かの興味を惹けるかもしれない。
が、この記号の羅列は果たして「私」なのだろうか。そもそも、ほんのちょっと並べてみたところで、これは私が好きなモノの、ほんの一部でしかない。
いやいや、これだけで空から、麗しく、優しく、可愛いらしく、やんごとなき雅な天使が舞い降りてきて、「アタマッからケツまで、まるまる『共感』するぞい。あたいもマンマおんなしモンが、丸っと好きだっちゃ、ピースピース!」と言ってくれる可能性はゼロではな……いや、さすがにゼロである。
というか、そんな奴が現れたら、なんとも気持ち悪い。
あらゆる場所に、「共鳴」の火種が…
では、挙げたようなタグ(=#)は、価値のないものか。畢竟、「好きなモノ」とは何ということもなく、自意識を酔わせるばかりで、せいぜい軽い「共感」を誘うので精一杯な代物なのだろうか。
……私の経験から答えれば、もちろん「否」だ。
さるおじさまと、「橋本治」について語らったことがある。思わぬ老人と、「中原中也」という共通項で、話が膨らんだことがある。「木下惠介」や「山田太一」のおかげで、素晴らしい人格者に出会えたことがある。「ポール・トーマス・アンダーソン」や「デヴィッド・フィンチャー」のことで、熱く議論を交わしたことがある。「スピッツ」が好きな子と、仲良くなったことがある。印象派の展覧会を一緒に回って、心の距離を縮めたことがある。東北楽天ゴールデンイーグルスのファンだったことで、人と野球を一緒にしたことがある。ある、ある、ある。
そこには同期性、同時代性なんてなかった。年齢も、肩書も、職業も、性別も、なかった。ただ「共鳴」する感覚だけがあった。
同じセリフ 同じ時 思わず口にするような
ありふれたこの魔法で つくり上げたよ
(「ロビンソン」スピッツ)
「俺と共鳴せえへんかい?」
もし今、多くの人々が「共感」を求めているのだとしたら、「みんな一緒」「みんな好き」「みんなと同じ」という一体感に、何か安心を求めているのかもしれない。
「共鳴」というモノは、それに比べると、なんとも不安定だ。いつ鳴るとも知らない、鳴らないかもしれない。誰と鳴るかも知らない、鳴らないかもしれない。でも、鳴ったとき、確かにそこに、「何か」はある。
「ありふれた魔法」とは何か。「ありふれている」くらいだから、それは日々の雑事、周囲の喧騒の中で、容易くしぼんでしまうものだ。「くだらない」と見過ごされるようなものだ。魔法というには、あまりにも脆弱で、たいした力もないものだ。でも、「思わず口に」しないと生みだせないものなら、それは何か不断の意思を持って生きなくては使えない「魔法」だ。
人の目を気にしながら、自尊心と擦り合わせ、損得の算盤を弾き、瞬時に答えを出したうえで、安心して大声を上げる「共感」なんてモノを、私は感じられなくなってもよい。
ただ、日々の生活の中で、自分にも他人にも誠実に生きようとし、時に好きなモノを語りすぎてしまい、時に不条理に打ちのめされて口をつぐんでしまう……そんなモノに「共鳴」する感性だけは、何とか残し続けたい。私は、そう願う。
俺はここで 何もかもをわかったんだから
心に愛をこめて 殴りあえとわかったんだから
それっ おいっ
俺と 共鳴せえへんかい?
(「僕と共鳴せえへんか?」町田町蔵+北澤組)
(おわり)