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28. 語学学習は体育だ!(為末大『熟達論』を読んで①)

 私は趣味で卓球をやっている。
 かなりガチで。
 新しい技術修得のための練習をこなすことがある。
 ボールが飛んでくるコース、スピード、回転量がほぼ変わらないという条件なら、問題なく打てるが、いざ、試合になると打てない。
 試合中、よほどその技術を試そうと意識していなければ、その技術自体に挑めないし、挑んだとしてもミスして相手に得点を与えてしまう。

 卓球の試合中、自分の体について『動かしている』というより『動いている』という感覚である。
 プレー中、大半の判断は反射的であり、無意識である。

 体の髄に至るまで技術が浸透していないのだと感じ、反復練習を重ね、ひたすら体に動きを覚えさせる。

 家に戻り、音読やシャドーイングなど日々の学習に取り組む。
 前日覚えたつもりの表現を、本日になるとすらすら口に出せない。
 同じように、作文で使える表現が、スピーチになると出てこない。
 そんなもどかしさを感じる機会は多い。
 上にも記したとおり、卓球での技術習得に通じるところがある。
 その経験を重ね、今では語学の修得は運動技能の習得に似ているのではないか、と感じている。

 現在は京都大学国際高等教育院附属国際学術言語教育センター教授を務める柳瀬陽介先生は、以前、ご自身のホームページでもこのように記している。

外国語を的確に話すということは、おそろしく高度で精妙で高速な口舌の身体運動です。ピアノやチェロにも並ぶ修練が必要です。
(https://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/education.html#060513)

柳瀬陽介「高度な一般的英語力を目指すために」(『英語教育の哲学的探究』2006年5月13日付)

 私は運動技能習得に、柳瀬先生は演奏技術の習得に例えているが、いずれも身体運動に直結しているという点で共通している。

 書店で、世界陸上メダリストであり、オリンピックに3回出場した経歴をお持ちの為末大さんの新著『熟達論』を見た。
 何気なく開き、数ページを読んだ時点で、「むむ!運動の世界での体験は語学の習得にも当てはまるのではないか!」と感じた記述が多く見られたので、躊躇なく購入した。

 技能習得そのものに限らず、学習を継続させる中での心境についても非常に親和性を感じられる記述がある。
 例えば、序章での記述は以下のとおりである。

 孤独感を和らげるわかりやすい方法は、集団に受け入れられることだ。(略)
 だが、辛いのは、何かを極めても、他者に認められるとは限らない(略)
 他者の承認が欲しくても、それを直接追いかけると翻弄されてしまう。追いかけているうちに自分のやり方が正しいのかどうかもわからなくなってくる。(略)
 正しいことをやったからうまくいくわけでもなく、うまくいったから正しいわけでもない。(略)
 何一つ正解がなく誰も教えてくれない中で、この方向だと自分で見当をつけて進んでいかなければならない。 

為末大『熟達論』(pp.36-37)

 私は、英語を人に教えるため、高い”英語力”が欲しいと思っている。
 富士山について語るなら、富士山に登った経験があった方が良いと私は思っている。
 高い”英語力”を身に着けるため、自らが良い学習者でなければならないと思っている。

 自分の”英語力”が伸びているのか、きちんと世間に求められている基準に達しているのか、目に見えないものを可視化するため、各種検定試験に挑む。
 最初の目標を達成できても、他者と比較し、さらに上の級(スコア)を目指す。
 結局、各種検定試験で良い結果を収めるためには、試験に特化した対策が近道であると気づく。
 自分が何のために語学(英語)を学ぼうとしているのかわからなくなる。
 検定試験対策で自分が求める能力を高めることができているのか、はたまた単に承認欲求を満たしたいためか、仕事で困らない能力を身につけられているのか。
 今の自分の取り組みが正しいか誤っているのか誰も判断できない。
 やみくもに挑戦するが、モチベーションも十分高まることなく、また、十分な対策もとれることなく、満足いく結果を得られないことが続いた。
 このスタイルで良いのか、モヤモヤした感情を抱えていた。

 最近、イギリスの雑誌「The Economist」を読んで記事について意見を交わす勉強会に参加し始めた。
 数回参加し、外国語で議論することの難しさを痛感した。
 そして、こういう場で相手の意見の趣旨をくみ取り、自分の意見をしっかりと言語化して分かりやすく伝えたい、と強く欲するようになった。
 自分の学習スタイルの姿がわずかながら見えてきた気がして、気持ちが盛り上がった。

 『熟達論』を通読すると、そんな語学学習者の心境がアスリートの心境とも重なる記述が多く見られた
 精神的な面でも、語学学習と運動技能習得は親和性が高いと推察された。

 このことから、私は今から英語を学ぼうとする生徒を前にしたと仮定するなら、生徒たちに対し、英語を話せるようになりたいのであれば、机上の学習だけに終始してはならないという含みも込め、「語学学習は体育と同じである!」と説明するだろう。

 著者は、熟達を探求していくプロセスを「遊」「型」「観」「心」「空」の5段階に分けられるとしている。
 語学学習とどのようにオーバーラップしているのか、今後、記して、今後、より考察を深めていきたいと思う。