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家族のため? 家族の”せい”にしてるだろ。

近頃、ジュリーこと沢田研二にハマっています。
私は松田聖子ファンでもあるのですが、輝けるスターのオーラは時代を経ても人(私)の心を掴むものです。カッコイイぜ、ジュリー。


ところで、昭和の歌を聞いていると、
「さすがにこの歌詞は現代感覚じゃ聞けないな」
と思うことがあります。
ジュリーで言えば『カサブランカ・ダンディ』とか。

ききわけのない女の頬を
ひとつふたつ はりたおして
背中を向けて 煙草を吸えば
それで何も いうことはない

ダメでしょ、普通に。初めて聞いた時は一瞬耳を疑いましたもの。平成生まれの私にはもはや笑いが込み上げるほどです。今のシンガーソングライターからは絶対に出てこない世界観でしょうね。
歌詞の続きを見ていくと、「もうそういう時代ではなくなった」と歌っている内容ではありますが。

こうした時代感覚のズレが表れ始めた歌詞は、さだまさしの『関白宣言』が発売当時すでにそうであったように、コミックソング的な聞き方をして楽しんでいます。
あるいは物語でいうところの時代劇・時代小説としてみても面白いです。
いずれにせよ現代の価値観とのギャップが新たな魅力になっているように思います。


『カサブランカ・ダンディ』を聞きながら上記の内容を考えていたら、以前にも違和感を覚えた昭和の歌があったことを思い出しました。
チューリップの『青春の影』です。
一見単純なようで全体的に難解な歌詞ですが、私が特に引っかかるのはここ。

自分の大きな夢を追うことが
今迄の僕の仕事だったけど
君を幸せにする それこそが
これからの僕の生きるしるし

〈けど〉は〈けれども〉の省略で、前後を接続する助詞です。
単純接続に用いられたり、前置きから本題に移行する際に用いられたりしますが、この歌詞の文脈では矛盾する前後を対比的に結びつける逆接として用いているのは明らかです。
これが私に違和感を与えました。「自分の夢を追うこと」と「君を幸せにすること」がなぜ矛盾するのか、道理がわからない。

時代背景を踏まえて考えれば想像はできますがね。
『青春の影』が発表された1974年当時すでに恋愛結婚の割合は見合い結婚を上回っていましたが、それでも三割はまだ見合い結婚でした。
恋愛も結婚も個人の自由でしょう、という現代では当たり前の価値観も、あの時代にどの程度勢いのあるものだったか私にはわかりません。
見合い結婚の割合から言っても、結婚はあくまで家と家との結びつき、家庭を持って初めて一人前――というような価値観が強く残っていた可能性は高いし、そうであれば「個人の夢」と「家庭の形成」を矛盾する要素として対比させるのもわからなくはない。
いずれにせよ、この歌も現代劇というより時代劇であると私は思います。


ただし、1974年当時であったとしても間違いなく言えることは、「家族のために夢を諦めます」なんて台詞はカッコよくもなんともないということです。
有り体に言って嫌いなんです、私。この「家族のために」という言い回しが。
どう考えても、夢を諦める言い訳として家族(結婚)を利用しているだけですから。家族の”ため”の生き方というより、その生き方しか選べなかったことを家族の”せい”にしていますよね。現に個人の夢と家庭生活を両立できる人間も存在する以上、それができないのだとしたら、それはその人の能力の問題でしかありません。

「独身のお前に妻子ある身の気持ちがわかるか!」と叱られそうですが、台詞の説得力の有無くらいは妻子がいなくても判断できます。
「家族のために」を口にする人の大半は、この続きに「何かを捨てた/諦めた」というニュアンスを含ませます。でも実際にはほとんどいないのです。手にいれた上で家族のために手放した、という人は。
多くは、まだ手に入れてすらいなかった理想を家族のために捨てた、とほざくわけです。とんだ寝言ですよね。手中にないものをどうやって捨てられるのか。

筆者の私は独身の作家志望ですが、もし今後妻子を持って「家族ために作家の夢は諦めます」と note に記事でも書いたなら、読者諸賢は内心呟くことでしょう。「家族は関係ないだろ。お前に才能がなかっただけだよ」と。

仮に「家族ため」という措辞に説得力を持たせたいなら、
「好きな仕事に朝から晩まで打ち込んでいたけれど、妻が病気になって、もっと側にいてやりたいからその道を諦めて時間の融通が利く業界に移りました」
――程度のエピソードは要ります。

まず手に入れないことには、「家族のため」なんて台詞は吐けないのです。



■あとがき
派手なレコードかけながら書きました。