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インドネシア駐在編

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バリ島 作られた神秘の楽園

バリ島 作られた神秘の楽園

私はインドネシアに7年ほど出向していましたが、世界的に有名なリゾート地、バリ島には数回行きました。
家族旅行で行ったのは1~2回でしたが、出張名目でインドネシアに来て、ついでにバリ島観光というのはよくあるパターンで本社の偉い人やらジャカルタの取引先を招待して行きました。
アテンドする側のポイントは、当時、公的な交通機関があまり無くて、タクシーも当てにならず、レンタカーも一般的でなかったので、いつで

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インドネシア グルメ

インドネシア グルメ


果物の王国インドネシアに赴任して、最初に教えられたのは、「生ものは食べるな!」と云うことでした、勿論、バナナ、パパイヤ、マンゴ、ドリアン、マンゴスチン、ジャックフルーツ、ランブータン、ライチーなどなど無数にある果物は別です。
中でもドリアンは、果物の王様と云われ、最も高価な果物で冷蔵庫でよく冷やして食べるとアイスクリームのような食感で現地ではドリアン中毒になるぐらい入れ込む人も居ました。
ただし

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プンバントゥーの一日

プンバントゥーの一日

プンバントゥー(女中さん)は家族帯同で赴任してきた日本人一家が最初に出会うインドネシア人です。
彼女たちはジャカルタ近郊の農村から出稼ぎに出てきました。
出てきたときは14~15歳ぐらい、まだ何も知りません。
最初は、チュチ(洗濯・掃除係)として、やがて台所で日本人のニョニャ(奥様)の手伝いをしながら日本食の料理法を覚えて、コキ(料理番)に出世します。
何十年もコキをして、若い日本人の奥様より日本

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南海の楽園でイスラム教

南海の楽園でイスラム教

ジャカルタの朝は、町内のイスラム寺院から拡声器で流される「アザーン」で始まります。男声の張りのある高音で朗々と唱えられます。始めは「コーラン(クルアーン)」の一節を朗誦しているのかと思いましたが、「アザーン」は、「コーラン」では無く、礼拝堂に来て朝の礼拝を行うように誘う為のもので、アッラーを褒め称え教徒の義務を果たすように呼びかけます。

ここで、お断りしておきますが、私は「イスラム教(ムスレム)

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インドネシア華僑の知恵

インドネシア華僑の知恵

私がジャカルタに赴任して来て驚いたのは、取引先の80%が、中国系インドネシア人の経営する会社だったことです。得意先が100軒あるとすると、80軒が中国系、10軒がインド系、8軒が日系合弁、最後の2軒がプリブミ(ピュア・インドネシアの人)でした。

この2軒も潰れました。

少し黒字になったときに社長がベンツのセダンを買ったのがいけなかったのです。

当時、総人口1億6千万人のこの国で、中国系の人は

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インドネシアでの生活

インドネシアでの生活

クトゥア エルテイ (町内会長さん又は町内の長老)
家族が日本からやってきて、家を1軒借りてジャカルタ生活が始まりました。
早速、黒田生活指導員の指導に従って、町内の「クトゥア エルテイ」(町内会長さん)に菓子折りと3万ルピー(7500円ぐらい)のお金を包んで挨拶に行きます。

眼鏡をかけた中年の男の人がニコニコして出迎えてくれました。
(お金や物を貰って、怒り出す人には会ったことがありません。)

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未完の大国:インドネシア

未完の大国:インドネシア

日本帝国陸軍の残したもの。
 私が赴任した37年前のインドネシアは、オランダ東インド会社の植民地として西暦1602年から約340年間支配されたあと、第2次世界大戦による日本軍の3年半に及ぶ占領とオランダ支配からの開放、スカルノ初代大統領による独立の達成、最初、社会主義的な傾向を持って始まり、後に独裁政権化したスカルノ時代を経て、軍部のクーデターによるスハルト軍事政権の成立等々、建国後33年目の若い

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インドネシア プサカ

インドネシア プサカ

突然の痛風発作
この際本音を言ってしまうと、インドネシア合弁会社の営業担当役員の辞令が出た時には、
 
「モスクワの次はジャカルタ!? 何故、ロンドン、パリ、ハンブルグ、ニューヨークじゃ無いんだ?!」と、やや落ち込みました。

 そのストレスの所為なのか、生まれて初めて痛風の発作が起きて歩行不能になりました。
会社に連絡して寝ていると、

 「石井は不貞腐れて、会社に来ていない。」

と言う噂が大

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