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インドネシア華僑の知恵

私がジャカルタに赴任して来て驚いたのは、取引先の80%が、中国系インドネシア人の経営する会社だったことです。得意先が100軒あるとすると、80軒が中国系、10軒がインド系、8軒が日系合弁、最後の2軒がプリブミ(ピュア・インドネシアの人)でした。

この2軒も潰れました。

少し黒字になったときに社長がベンツのセダンを買ったのがいけなかったのです。

当時、総人口1億6千万人のこの国で、中国系の人は約3%(500万人ぐらい)しか居ませんでしたが、経済の80%を握っていました。
例えばお米、タバコ、繊維などの生活関連産業の殆んどはインドネシア華僑が握っていました。
金融関係は国営銀行を除けはやっぱり中国系です。
日系合弁会社は、東京銀行ジャカルタ支店に口座がありましたが、有力な中国系銀行とは仲良くしていました。

こうなった背景には、オランダ東インド会社の340年に及ぶ植民地支配があります。

この国の主要貿易港は、ジャカルタ(旧バタビア)とスラバヤです。年中、高温多湿でクーラーの無かった頃は住みにくい環境でした。統治のため派遣されてきたオランダ人は標高が高く涼しい避暑地のバンドン(ジャカルタから車で3時間)、マラン(スラバヤから車で2時間)に住み着いて優雅に暮らしていました。貿易で巨額の利益を得ていたオランダは、港における管理、監督に有能な官僚が必要でした。連れてこられたのは中国人です。それまでも移り住んできた中国民族は昔から居ましたが、権力と結びついた形でしっかり根を張る契機となりました。第2次世界大戦でオランダの統治が崩れた後に中国人の経済的支配が始まりました。つまり戦後の日本と同じ現象です。日本では、高齢のトップマネジメント、官僚そして政治家が戦争責任を追及されて追放になり、その下で働いていた30台、40台の世代が繰り上がって戦後の日本を引っ張り上げました。

Low Profile High Profit (目立たない様に、しっかり稼ぐ)

独立達成後、政治的覇権は当然プリブミと呼ばれる原住のインドネシア人のものとなりました。権力の中枢は、インドネシア国軍です。各州の知事は中央政府の任命で、其の軍管区のトップは国軍の指名で決まります。この二人で其の地方は全て仕切られています。

数の上では3%しか居ない中国系の生きる道は、政界や軍の出世街道を登っていく若い優秀な軍人を取り込んでスポンサーとなり一緒に大きくなることで、自分の息子は、プリブミの中で最優秀の学生とお友達になって、其の成長に賭けるという形を取ります。
自分は表に出ないでプリブミのお友達が政府高官になるのをサポートします。
お友達が軍の高官かジャカルタ市長にでもなってくれれば大当たりというわけです。
お友達関係は、中堅からトップに登って行く過程で強化されて、偉い人はインドネシア・プリブミで後ろでお金を出している人はインドネシア華僑という構造になります。中には、大統領一家のスイス銀行口座の管理を任されている人まで居ました。

コタ(下町中華街)の食事会

インドネシア華僑の中には3代前から住み着いている人も多く、家庭内では福建語や北京官話で話していても、外では完全にインドネシア語を使っていました。中にはインドネシア語しか話せない世代も生まれていました。私も赴任して3年たっていたのでインドネシア語での日常会話には困りませんでした。
ジャカルタの下町、港の近くにあるコタ地区は中華街で市場、食堂、クラブ、商店がひしめいていましたが、市場の2階に「日日飯店」という汚い中華料理屋がありました。
見かけは最悪でも味は1流で、月に2度ほどそこの個室で、中国系紡績職布会社の社長連が昼飯を食べながら情報交換を行っていました。メンバーとはテトロン綿の商売で仲良くしていたので、私も時々呼ばれていました。

その頃日本では、空前のバブル景気で、東京都の地価総額とアメリカ全土の地価総額が一緒になったという信じがたい話が伝わってきます。華僑の関心も高く、私はこのジャカルタではどうなるのかときかれていました。以下は私の説明です。

「同じ広さの土地でも、其の場所、利便性、住民の質で値段は何倍にもなります。」
「ジャカルタの問題は、治安と水なので、このことから考えて買う価値のある場所が一つだけあります。」
「スハルト大統領の官邸があるチェンダナ地区です。」
「この地区だけは、ロンドン水道局が民営化したテームズウォーター社が特別に工事を行って水道の質がいいと聞いています。また治安については言うまでもないでしょう。最近、其の周辺で高級分譲住宅の販売があるそうです。私なら一つ買っておきたいですが、私はそんなにお金持ちではないので・・・皆さんならどうですか?」

一瞬、シン となりました。リスクをとって大金を賭けるとなると、驚くほど真剣になる人たちです。その後、次に呼ばれたとき、

「トゥアン・イシイ! ありがとう。1軒買ったけどとても値上がりしている。」

といってきた人が一人だけ居ました。「エッほんとに買ったの!!」と思いましたがニコニコ笑って「良かったね」とだけ言っておきました。そんなわけで、私はこの昼食会の正式なメンバーになりました。

ルピア切り下げで笑った人

1986年8月、いつもの昼食会に出ると、その日の話はルピアの切り下げがありそうと言うことでした。過去2回、ルピアは対ドルで大幅な切り下げを行ってきましたが、インドネシア政府は工業製品の輸出振興を図って又やるのではと噂されていました。 
いつも、冗談が飛び交い笑いの絶えない食事会ですが、いつに無く真顔でヒソヒソという感じで、いつもと違うなという雰囲気です。

すでに触れましたが、皆さん政府高官とはお友達として付き合っている人たちばかりです。
どうしても気になったので、その帰りにある大物華僑の事務所を訪ねました。
すでに「切り下げ」については知っているという顔をして、「いつになるだろうか?」とだけ聞きました。
私の顔をじっと見て、

「1週間か、2週間・・」

とだけつぶやきました。

大変です! 

当社合弁会社6社の経理部長を集めました。私も出向者の中ではもう古顔になっていたので、みなさん何事ならんと集まってきました。
当時、各社の銀行からの借り入れは、金利の高い(年10%近い)ルピア建てではなく、ドル建ての借金をしていました。

「ルピアの切り下げが、来週あると思うので、ドル借金をルピア建ての借金に切り替えたい。」

というと、

「自分では決められない!」
「もしなければ、高い金利を払うことになる。」
「本社に確認したほうか・・・」

などなど思った通りの反応です。私の会社の経理部長には、根拠を示して納得してもらっていたので、

「勿論確証はありませんが、当社はやります。皆さんは後は自分で判断してください。」

と突き放しました。どのようにして其の事を確信したのかは説明できませんでした。
ところが、1週間たっても何も起きません。もう9月に入っていました。私も不安になりましたが、あと1週間は待とうと思っていました。

翌週、当社の経理部長は、日系企業の経理部長会でスマトラ島のトバ湖(有名なアサハンアルミ・プロジェクト)に研修旅行という名前の観光旅行に出かけていきましたが、途中で引き返してきました。

「石井さん、やはり始まったね。各社の経理部長は切下げ対応で旅行どころでなくなって皆さん途中から帰ってしまったよ。」

その週、インドネシア・ルピアは対米ドル45%の切り下げを発表しました。さらにその頃日本円は対米ドル切上がっていて、1ドル160円から120円になりました。
日本円1円は、一気に4ルピーから8ルピーに暴騰したわけです。
合弁6社は、この切り下げで、一夜にして借入金がドルベースでは半額になりました。
その後も、ルピアはずるずると下落し、翌年には1円が10ルピー以上になりました。
そのお陰で、合弁事業の財務体質と輸出競争力は格段に強化されました。

年利10%の国で、ほぼ無借金で会社を経営すると、かなり下手な経営でも大黒字になります。それからの3年間当社の合弁各社は黄金期を迎えました。

この話には、落ちがあります。

実は当社の経理部長が旅行に出てすぐ後に、巨額のルピア借入れをした現地人の経理課長が真面目な人だったので、たまりかねて、借入れ全額の2割ほどをドル建の借入れへの再転換をしていました。
その分儲け損なったわけですが、不問にしました。ローカルに説明できる話ではありません。

ところが、その後に聞いた話では、東京銀行ジャカルタ支店の中では、

「東レグループだけは、切り下げを事前に知っていたのではないか?  合弁全社、ドル借金をルピア借金に切り替えている。」

と話題になったところで、

「いや、確信は無かったのではないか。1社は、切下げの前日、再びドル建てに再転換している。」

という人が居て、その話は終わりになりました。めでたし、めでたし!!

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