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ヨブ記の解説(上):絶望の定義、類型、ヨブの絶望

はじめに:絶望の定義と類型

2013年に書いたヨブ記の解説です。しばらく友人たちの間でひそかに読まれていたのですが、わりと好評だったので加筆修正して公開します。

ヨブ記は、旧約聖書の中でも難解なことで有名な書物です。ヨブ記は、ウツという地に住んでいたヨブという人が絶望していくプロセスから始まり、最終的には復活して終わります。そして、彼にとっての「神」は、絶対的な運命の力=人間を圧倒する物理的な力です。イエス以後の「慈悲の神」だと思って読まない方がわかりやすいです。

キリスト教徒且つ世俗の歴史家でもある私自身が納得できて、一般の人にもわかりやすい解説が無かったので自分で書きました。専門的な研究ではなくて、主なテーマを普通の人にわかるように説明することを目標にしたものです。

私自身、10代の頃、深く絶望していた時期がありました。きっかけは学校でのトラブルや失恋といった“些細な”問題ですが、そういった個々の問題への絶望が、世界全体への絶望に直結してしまう危うさを持った少年でした。

しかし、聖書を読んで育った私は、直感的に「ヨブ記には絶望からより強くなって復活し、精神的にも知的にも沈み込み過ぎないようにする力強い思考と習慣を獲得するためのヒントがある」と感じていました。それで、10代の終わりから20代の中頃までヨブという人を自分の関心にひきつけつつ理解しようとしたのでした。

ヨブ記の解説に入る前に、絶望とは何かについて書いておきます。スピノザの見解から始めるのが面白いかと思います。アントニオ・ネグリが「ヨブー奴隷の力」で指摘していることですが、ヨブという聖書の登場人物、スピノザという近代の哲学者には、数奇な共通点があります。それはヨブ記の最終地点は、「神を見る」という現象なのですが、スピノザの哲学は「神を見る」ところから始まります。しかし、スピノザが感情をオーガナイズするための日常の哲学であるのに対し、ヨブは信じていた道徳世界が破綻した危機の状態から始まるのです。その限定的な意味では、二人は一つの人生であってもおかしくないのです。

さて、スピノザは、「エチカ」にて「絶望とは確定した事象に対する悲観的観測から生まれる悲しみである」という主旨のことを言っています。スピノザの感情論における絶望のユニークさは、それが「希望の必然的な帰結」と考えられているところです。希望は、不確かな事柄に対して感じる不確かな喜びですよね。コインの裏側では「不安」、つまり不確かな事柄に対する不確かな悲しみが寄り添っているわけです。希望と不安は、運が良ければ安堵になり、運が悪ければ絶望になる。彼は、希望する人間の心にまで絶望の種を見出し、告発しているのです。日本のアニメを見てると、希望の重要性を強調しているものがとても多いのですが、スピノザの作品群を読んだ後だと、にやにやしてしまいます。それでは、人間は希望に頼らずに幸福に、あるいは力強く生きていけるのでしょうか。そのヒントが、ヨブ記やスピノザの哲学にあると考えていただいてOKです。

絶望研究の第一人者で、キリスト教徒だったキルケゴールは、絶望が病だと言っています。キリスト教用語では罪です。というのも、神の力の実現した様態である「世界」及び「自己」の否定に基づくからです。ただし「絶望すること」が能力として捉えられる場合、それは植物や動物には見られない、精神を持つ人間特有の能力を表現していると考えられます。誰でもできることではありません

キルケゴールは、絶望には三種類の類型があると言っています。
1.自分が絶望していると認識していない絶望
2.絶望的に自分であることを望まない絶望
3.絶望的に自己であることを望む絶望

第1の類型を部分的な絶望と呼びます。というのも、この類型では、自分の生を取り巻く事柄の一部に絶望するからです。部分的な絶望は、何かについて絶望することです。例えば、バスケットボール選手がNBA選手になれないことに絶望するとか、恋人を失ったことに絶望するとかの類です。部分的な絶望は人類にとってはとても普遍的な病です。部分的絶望をしていないという人は、極めて稀だと思います。

しかし、部分的に絶望している人は、自分が絶望しているということを認識していません。世間一般が部分的に絶望しているから、病気と認識されません。例えば、映画の「バックトゥザフューチャー」は部分的に絶望しています。現在の一部に絶望しているから、過去を改変して、現在の事象を変えようとしているのです。「Steins;gate」でも「魔法少女まどかマギカ」の暁美ほむらでも同じです。パートナーをしょっちゅう替えるという人も、部分的に絶望しています。過去に戻るのは、現実を思うままにできない自分に絶望しているからだし、しょっちゅう彼女や彼氏を替えるのは、理想のパートナーを得られない事に絶望しているからです。しかし彼らは、自分自身が絶望しているのではなく、良い結果や悪い結果があって、それに応じて喜んだり悲しんだりすると思っているのです。

私は、私たちが日常的に使う言葉の多くに、部分的絶望へと導く罠があると思っています。「成長」や「開発」、「自由意思」や「罪」、「完全性」と「不完全性」、そして「希望」。これらの概念に部分的な絶望が含まれているかどうか考えてみてください。私たちの思考パターンはあまりにも広く絶望に毒されていることがわかると思います。

キルケゴールにおける絶望の第2・第3の類型は、部分的な絶望よりも高次な絶望の段階として考えられています。これらの段階では、絶望している当人は、自分が絶望をしてることを認識しているのだけれども、その現れ方が逆になっています。

第2類型は、自分が嫌で嫌でたまらないので、変わりたいのだけれども、変わることが絶望的になっています。ここでは、価値判断は誰か他の人々が形成したものに基づいています。そこから対象として評価される自分があまりにも低いがため、自己嫌悪の絶望に陥っています。

キルケゴールが絶望の最も深い段階とする第3類型では、絶望している当人は、全く正しく善なる存在である自分という妄想の中で、世界一般(もしくは神)に絶望します。しかし、キルケゴールが示唆しているところで私が同意するのは、この段階は実は根本的な回復に一番近いところに至った絶望だというところです。というのも第3類型においては、価値を決定するのは他者ではなく、自分であるというコペルニクス的な転換が既に起きているからです。ニーチェみたいな言い回しになりますが、悲観からの脱出を困難にする所与の道徳から、既に自分が自由になっているのです。肯定を可能にするビジョンさえ獲得できれば、絶望から(たとえ一時的であっても)完全に抜け出すことができるのです。ネグリのヨブ記解釈によれば、第3類型の絶望に到達したヨブは、「神を見た」ことによって肯定を可能にするビジョンを獲得し、絶望から解放されます。(キルケゴールの方は、自己義認の罪の認識と信仰によって救われるという伝統的な見解で、私個人としてはちょっと共感できません。)

ヨブの絶望:この世とあの世の全体に絶望する

ヨブの絶望は、どのようなものだったのでしょうか。ヨブの物語は、部分的な絶望(ヨブの子供たちの死、病気)から始まるのですが、彼は「神との戦争」という見方の抽象度を高めていくことにより、圧倒的な力を持つ神が支配する生と死を超えた全ての世界に関してまるっと絶望する(この世とあの世の全体について悲しみに暮れる)という思考パターンに直結していきます。

部分的絶望や自己嫌悪の絶望においては自殺する可能性がありますが、ヨブのように包括的に絶望する人は自殺に意味を見出しません。前者においては死は人間にとって最後の希望となりえますが、後者においては人間は生に絶望するのと同じ程度に、死後の世界に対しても絶望しています。
ヨブ自身の言葉では以下のようになります。(私が用いているのは新改訳聖書です。)

「私の生まれた日は滅びうせよ。『男の子が胎に宿った』と言ったその夜も。その日はやみになれ。神もその日を顧みるな。(2~3節)

「なぜ私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれでたとき、息絶えなかったのか。(11~12節)」

「なぜ、苦しむものに光が与えられ、心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。死を待ち望んでも、死は来ない。」

このようにヨブは「死にたい」と言いながらも、自殺するという選択肢はありません。包括的な絶望というのは、生産的な生き方を妨げるだけでなく、死ぬ勇気をも無力化します。

部分的な絶望や自己嫌悪の絶望においては、自己が死んだように生きることになります。第3類型では自己が過剰に生きているから、周囲からは病気(凶気)に見えます。ヨブの場合、死が死に、生が死んだところから話が展開していきます。

ヨブが経験したような絶望を克服することは、これらの全ての種類の絶望を同時的に克服することです。それには、慎重に考えてみなければなりませんが、生と死(存在と非存在)との両方を肯定する思考枠組みが必要になります。教会で教えられているキリスト教は、死に希望を与えてくれますが、生に対する絶望には明確な答え持っていません。逆に生命を賛美するだけでは、死に対する恐怖を克服できません。

どのようにしたら、復活したヨブのように、生と死をまるっと肯定することに成功し、包括的で全面的な絶望を克服することができるのでしょうか


ヨブ記の導入:「義人」の悲劇と応報的正義

ヨブ記の解説に入ります。まず導入部分の構造を見てみましょう。大まかに言って以下の流れになります。

1章
a. 悲劇以前のヨブの善性、彼が所有する巨大な富

b. 神とサタン(誘惑者)の議論:サタンの誘いに乗り、神はヨブを試練にあわせることを承諾

c. 第一の悲劇:ヨブの子供たち10人死す、ヨブは財産をも失う。ヨブは愚痴をこぼさない。

2章
d. 神と誘惑者の議論その2:サタンの誘いにのり、神がヨブを病気にすることを承諾

e. 第二の悲劇:ヨブが全身悪性の皮膚病にかかる:それでも神を呪わないヨブ

f. 友人たちの訪問:ヨブの悲惨な姿に友人たちはヨブを見分けることもできない。7日7夜の沈黙。

3章
g. ヨブのモノローグ:ついに自らの生を呪う

ヨブの絶望のはじまりについて
初めてヨブ記を読む人にわかりにくいと思われる部分が、3章までで少なくとも2箇所あります。1つ目は、なぜ聖書の他の部分において絶対的に善なる存在とされてきた神が、サタン(誘惑者)と結託し、正しい人(ヨブ)の人生をめちゃめちゃにしてしまうのか、ということです。つまり、神は悪を生産するのか、という点です。2つ目は、2つの大きな悲劇(10人の子供の死と自らの重病)が起きても神を呪わず、罪を犯さなかったヨブが、なぜ3章に入るといきなり自らの生を呪いはじめるのか、という点です。

文献学者たちの言うところを信じるならば、神とサタンの議論は、ー ヨブ記が現在の形になるのに500年ほどかかったと言われていますが ー どちらかといえば後の方の時代に「神が直接悪の生産に関わることをストーリー上の展開の変化によって避けるために」挿入された可能性が高いと言われています。あの議論の場面が無いにしろ、あるにしろ、「神が悪を行うのかどうか」というのは、ヨブ記の核心に至る問いですし、多くの人にとっては現在も解決されていない問題です。

私は、2つ目の問題(ヨブの絶望の起源)から始めようと思いますが、一度絶望してみた人にはヨブが(周りから見れば)突然に生を呪いはじめる理由がよくわかると思います。絶望というのは、精神的な支えとなっている前提が崩壊した後、沈黙を経て内面的に深化・加速するものです。第一、第二の悲劇の直後のヨブというのは、部分的にしか絶望しておらず、絶望は個々具体的なレベルに留まっていて、ヨブは自分が絶望していることを意識していません。具体的なレベルというのは、例えば子供たちが死んでもう生き返ることはないとか、自分が病気になって苦しいといった具体的事象に絶望しているということです。彼の悲観は、まだそれほど抽象的になっていません。そのため、外から観察している人には、神に対する態度も、自分の生に対する態度も変わらないように見えたのです。

重病になり、友人たちが来ても声をかけることができないような姿のヨブは、独りで座って自分の考えを誰かにうちあけることもなく考え込んで、一週間も自分の痛みと悼みに浸りこんでいきます。この時期にヨブの絶望は具体的なものからより抽象的なものへ、部分的なものから包括的なものへと深化しているはずですが、この過程でヨブは、さきほど触れた「神は悪を生産するのか」という問いに直面することになります。

元々ヨブも、ヨブが住んでいた社会もある三段論法に基づく道徳観を共有していました。

a. 世を管理する神は正しい人を裁かず、悪人だけを懲らしめる。
b. ところでヨブは正しい人である。
c. そのため、ヨブは裁かれず、幸福に生きることができる

これが世間的に合意されていたのだから、ヨブという人は最初から大物です。旧約聖書全体の中で「正しい人」あるいは「義人」と呼ばれる人は3人しかいません。ノア、ダニエル、そしてヨブです。いずれにせよ、正しく生きれば幸福に生きられるという前提があったのです。

ところが、正しい人物とされるヨブが、理由も原因もわからないまま恐ろしい惨劇に見舞われてしまうのです。物語の最初の部分で、「正しく生きれば幸福に生きられる」という前提がまず崩壊します。
ヨブの絶望の深化を再現していくと次のようになります。

自分が悲劇を生きなければいけないのはなぜか?正しくないからか?
自分は正しく生きたはずではないか?しかし、神は自分に恐ろしい懲罰を下した。やはり、自分は罪を犯したのだろうか?いや、そんなはずはない。
では神が悪を行うのだろうか。そうだとすれば、正しく生きることは何の意味も無い。
そうでないとしても、絶対的な力を持った神の前に立たされた時、有限な人間の正しさは絶対的な弱さでしかない。人間の正しさは、神の次元では何の意味もないのだ。
もし神が正しい人間にも罰を下すならば(=神が悪を行うならば)、希望を持ちうるだろうか?いや、持てない。
では、死んでしまえば、この苦しみを味わうこともないだろう?いや、死後の世界をも支配している神が私にこれだけの仕打ちをしているとしたら、死後の世界に平安があるはずがない。神と敵対しているかぎり、生にも死にもなんの希望もないではないか。

ヨブの思考は、裁判官であり同時に検察官である全能の神の観念、そして神と自分の敵対を前提とするものとなっていきます。このような全能の神の概念がなければ、生に絶望するか、死に絶望するかのどちらかで済みます。ですが、ヨブのような考えに到達すると、「神のまなざし」さえ、徹底的な監視社会のように耐えがたいものになります。自分の最も小さな過ちさえ見逃さない、恐ろしい検察官が毎日自分を見つめているような感覚です。
こうしてヨブは独りで包括的に絶望します。生きるも地獄、死ぬも地獄です。希望はどこにもありません。自殺による救いの可能性すらありません。ですので、ヨブが三人の友人たちと議論を始めるころには、既にヨブは、後に友人三人が主張することになるような応報的正義や弁神論は検討しつくしていて、「正しい人は救われる」という無邪気な信仰はずたずたに崩壊しています。

ヨブ記においては、まず神によって、誰よりも正しい人が究極の悲劇を経験させられる。その人は、深く苦悩し、絶望する。それゆえ、神を恐れ、他の人々に愛を示して生きてきた根拠も崩壊する。続く箇所では、彼の友人たちが、彼が苦悩し、絶望ているという、まさにその事実を根拠にヨブを罪に定めようとしていきます。

結論を言ってしまえば、ヨブ記とは、既存の道徳が崩壊した後に、どうやって倫理的な世界を再構築し、再度立ち上がることができるのか、ということを描いた書物です。
3章以降は、ヨブと三人の友人たちの論争が始まります。

続き →. https://note.com/kishotsuchiya/n/n25ab614c02d1

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