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ヨブ記の解説(中)正しさに関する論争

ヨブと尋問者たち

ヨブ記の解説(中)では、ヨブとその友人たちの論争について書いていきます。主な争点となっているのは、以下の3点です。

1.ヨブは本当に「正しい人」だったのか

2.ヨブが罪を犯したとすればどのような罪か

3.ヨブの絶望の根本的な原因となっている神と人間の関係性の問題とはどのようなものか

3章のヨブによる自らの生を呪うモノローグの後、4章からヨブと3人の訪問者たち ―― エリファズ、ビルダデ、ツォファルという、ヨブの「友人」と呼ばれているけれども、実は尋問者の役割を担っている人々―― の討論が始まります。この部分は、42章あるヨブ記のうち、4章から31章までを占めていて、ヨブ記の大部分を占めています。実際読んでみると、繰り返しが多いため中だるみしやすい部分でもあります。

尋問者たちが主張していくことは偏狭だったり、ヨブには当てはまらなかったりするのですが、彼らとの論争を通してヨブは自分の思考のどん詰まりの性質を理解していきます。まず、尋問者たちの主張とヨブによる批判に絞って書き、その後からヨブが発見していく復活への手がかりについて指摘していきます。

ヨブの悲劇と社会:応報的正義と弁神論

尋問者たちの登場によって、ヨブの絶望が社会的なインパクトを持っていたことがあきらかになります。4章から5章において最初の尋問者、エリファズは、その後の討論において何度も繰り返されることになる3つのテーマを持ち出しています。
1.悪を行う人は、神によって懲らしめられ、繁栄したとしてもそれはつかの間に過ぎないこと(「神は悪賢いものの企みを打ち壊す。それで彼らの手は、何の効果ももたらさない。5:12」)

2.神は、正しい人を懲らしめることがなく、彼らは地上において幸福な生活を送ることができるということ(「誰が罪がないのに滅びたものがあるか。どこに正しい人で絶たれたものがあるか。4:7」)

3.人間は、神の前に立たされたとき、清く(正しく)あることはできないということ(「人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前に清くありえようか。4:17」)

まず、最初の2つを合わせて「応報的正義の理論」と呼ぶことにします。

エリファズの主張を聞いたヨブは、すぐに無実の罪を認めさせるための罠だと察知します。ヨブは、自分は正しいと考えているので反論しますが、ビルダデとツォファルもまた、ヨブに罪を認めさせようと後からこの討論に参加してきます。ヨブに関して言えば、彼は答えるごとに新しい問題を提起し、嘆いたり、怒ったり、終いには嫌味になったりしますが、尋問者たちの方は、基本的にエリファズが挙げた3点をさまざまな形で繰り返しながらヨブに対する憎悪の度合いを高めていくだけです。
当初のヨブは以下のように考えました。

a. 神は正しい人を裁かず、悪者を滅ぼす。

b. ときに、私は正しい人である。

c. ゆえに私はさばかれるはずがなく、幸福に活きるはずである。

この三段論法は、導入部分の悲劇によって前提が崩壊し、それゆえヨブにおいては破綻しています。しかし、尋問者たちの主張においては、この三段論法が変形されて復活します。

a. 神は正しい人を裁かず、悪者を滅ぼす。

b. ときに、ヨブはすでに裁かれている

c. ゆえにヨブは罪に定められなければならない

つまり、ヨブは不幸で絶望しているというだけの理由で、罪を問われているのです。

ヨブは、応報的正義の理論を掲げる尋問者たちに対して、データを出して反論するという知的な対応をします。つまり、世間から悪いと思われている人たちは、データ的には繁栄していて、権力の座につき、安心して眠れるのに対して、みんなから尊敬を集めていた自分はひどいめにあわされていると答えるのです。

ここでは、現実を歪曲して応報的正義のイデオロギーを守ろうとする尋問者たちと、現実を語ることで社会の意識を変革しようとするヨブを読み込みたくなりますが、この時点のヨブはまだそこまで革命的にはなっていません。絶望したまま、ただ悲観するしかない現実を、尋問者たちにつきつけています。

ときに、神の行いがどうであれ、とにかくそれを正当化することを最優先事項とするような態度のことを”弁神論”と言います。ヨブの批判は、さらに尋問者たちの弁神論に向かいます。

「神の顔を、あなたがたは立てるつもりなのか。神の代わりに言い争うのか。神があなたがたを調べても、大丈夫か。あなたがたは、人が人を欺くように、神をも欺こうとするのか。(13:8~9)」

すでにヨブは、神を弁護することのくだらなさをよく知っています。人間に弁護されなければならない神様なんて、誰が信じたり、恐れたりするでしょうか。尋問者たちは、「神を弁護する」というまさにその行為によって、神の全能性を否定し冒涜している、とヨブは考えるのです。

応報的な正義の理論というのは、それが社会の構成員に合意されている限り、社会的な秩序を形成します。正しい人は幸せになり、悪い人は滅ぼされると信じているのなら、より多くの人が正しいことをするはずだと推測されます。現代の日本では応報的正義は国家機構によってよりシステマティックに実現されていますが、これは現代人たちが国家機構に道徳的な神の役割を贈与しているからです。

システムにとって重要なのは、完璧なシステムとして信頼されることです。尋問者たちの目には、ヨブ(正しい人なのにこの上なく不幸な人物)は、応報的な正義の理論と、さらにそれを前提とした社会秩序の根幹を揺るがす存在として映るのです。正しい人間の苦悩は、彼らにとっては破壊的です。だから、ヨブを罪に定めようとして、実際の罪があるかどうかとは関係なく、激しい尋問を行います。いわば、ヨブが握ろうとしている真実をもみ消そうとするのです。このように、ヨブ記においては、幸福主義、応報的正義の理論、そして弁神論は、権力の道具と化しています。

これに対してヨブは、罪を認めず、悔い改めもしません。そもそも悔い改める内容が無く、罪を認めても昔の幸福は戻りません。幸福論的な希望は既に完全に消え失せています。代わりに、ヨブはデータを掲示して、尋問者たちの主張を跳ね返します。応報的正義は偽りだ。弁神論は偽りだ。こうして、既存の社会道徳は、尋問者たちにとってもどんどんと危うくなっていきます。

この時点でヨブはまだ絶望していて、復活の兆しはありません。しかし、応報的正義と弁神論のうちに欺瞞を見出すヨブは、彼の時代から2000年分以上の西洋哲学を一気に飛び越えています。ヨブ以降で弁神論のくだらなさを徹底的に指摘したのは、17世紀に登場するスピノザの「神学政治論」と「エチカ」です

ただ、ヨブは、彼の友人たちが並べ立てた陳腐な意見のうちに、一箇所だけより深刻な問題を共有しています。神の絶対的な正しさと人間の限定的な正しさの比べようのなさです。

「しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができるだろうか。たとい神と言い争おうと思っても、千に一つも答えられまい。神は心に知恵のある方、力の強い方。神に身をこわくして、だれがそのままで済むだろうか。(9:2~4)」
また、

「たとい私が正しくても、神に答えることはできない。私を裁く方にあわれみを請うだけだ。たとい私がよび、私に答えてくださったとしても、神が私の声に耳を傾けられたとは信じられない。神はあらしをもって私を打ち砕き、理由もないのに、私の傷を増し加え、私に息もつかせず、私を苦しみで満たしておられる。もし、力について言えば、見よ、神は力強い。もし、さばきについて言えば、だれが私を呼び出すことができるか。たとい私が正しくても、私自身の口が私を罪ある者とし、たとい私が潔白でも、神は私を曲がったものとされる。(9:15-20)」

つまり、ヨブは弁神論や応報敵正義の理論については徹底抗戦しつつも、神と人間の非対称性については受け入れるしかないのです。こうしてヨブ自身の絶望の原因、尋問者たちとの間の問題が明らかになった後、倫理的世界の再構築を目指してヨブの反撃が始まります。

ヨブの思考実験:神と人間の通約不可能性

さて、3人の尋問者たちとの討論は合計3周するので、合計9ラウンドあります。ヨブは、一周目の終了後、尋問者たちの言っていることには形式的にだけ反論し、議論の流れとは関係なく、比較的アドリブ的に自分の本音を語るようになります。それは尋問者たちがヨブに罪を認めさせることだけを目的としていて、彼らの意見からは、絶望から浮上させてくれる何かを望めないとヨブが感じているからです。

しかし、ヨブには罪を認めたり悔い改めるつもりが全くないとすると、彼がこれらの尋問者たちとの議論を続けている意味はいったいどこにあるのでしょうか。彼は、会話のドッジボールに一体何を求めていたのでしょうか。

一見ヨブの議論は、行ったり来たり、進んでは戻り、全く違う方向に進んでみたりと、実に一貫性がないように見えます。例えば、ヨブは自分の過去の幸福が戻ったらいいな(29章)と言ってみた次の章(30章)ではそれにネガティブな見解を表明したり、別の神様が現れて今の神様との関係を取り持ってくれたらいいな(19章、※1)と言ってはその考えをすぐに放棄してみたり、いっそ殺してくれたらいいのに(6~7章)と言った後で死の虚しさを嘆いたり(14:7~12)、「主を恐れ、悪を遠ざけることが悟り」(28:28)と一度は捨て去ったはずの応報的正義に戻ってしまったりします。この行ったり来たりの原因の一つは、後の時代の人々による加筆にある(※2)と考えられます。しかし、もっと本質的でありえそうなもう一つの原因は、ヨブは真っ直ぐに絶望からの解放へは向かわなかったという可能性です。ある解放への道を構想しては失敗し、別の道を構想しては失敗し、時には後退しながら、さまざまな可能性を模索していたのです。

しかし、これらのぽっと出ては消えるアイディアとは別に、ヨブ記全体において繰り返し現れてくる一貫した思考の流れがあります。そしてそれは、彼が陥っている包括的な絶望を根本的に解決しようとするのならば、彼が必然的に立ち戻っていかなければならないようなテーマです。

ここで再度、応報的正義の理論の検討に戻ってしまいますが、そこでは、人間が正しい/悪いと考えているようなことは、神のレヴェルにおいても同様であり、それゆえ正しい者は幸福になり、悪いものは滅ぼされると考えられていました。ここには、「人間が認識したように神も認識する」というある種の人間中心主義が存在します。

しかし、一周目の議論の終了後、ヨブと3人の尋問者たちは、「結局人間が正しいと思っておこなっていることは、神の正しさの前では、意味を成さない」という結論にたどり着きます。これはヨブの絶望の原因そのものでもあり、「神は悪を生産するか」というヨブの疑問と、「ヨブの罪は何か」という尋問者たちの追求がたどり着いた答えでもあります。

ある時点でヨブは、これらの問題の言い換えを行います。真の問題とは、神が悪を生産することやヨブが犯した罪にあるのではなく、神と人間の間にコミュニケーション方法が成立していないことが本質的な問題だと考えるのです。すなわち、人間たちがまだ、神にとっての正義、神の意思、神の性質、神の属性、そして神の力を全く理解できないことこそが、自身の絶望と神との敵対関係の原因だとヨブは悟るのです。哲学では、これを「通訳不可能性」と言いますよね。

例としてヨブ自身の言葉をいくつか引用します。

「神は私のように人間ではないから、私は『さあ、さばきの座にいっしょに行こう。』と申し入れることはできない。私たち二人の上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。(9:32~33)」※3

「ああ、私が前へ進んでも、神はおられず、うしろに行っても、神を認めることができない。左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は合うことができない。しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。(23:8-10)」

「しかし、知恵はどこから見つけ出せるのか。悟りのある場所はどこか。人は、その評価ができない。それは生ける者の地では見つけられない。(28:12~13)」※4

そしてヨブは、13章を起点として、彼の望みがなんであるのかを理解し、それを宣言していきます。
「だが、私は全能者に語りかけ、神と論じ合ってみたい。(13:3)」

「できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。私は御前に訴えを並べ立て、ことばの限り討論したい。私は神が答えることばを知り、私に言われることが何であるかを悟りたい。神は力強く私と争われるだろうか。いや、むしろ私に心を留めてくださろう。そこでは正しい人が神と論じ合おう。そうすれば私は、とこしえにさばきを免れる。(23:3~7)」

ヨブの望みは、「神と対面すること」です。言い換えれば、「神の意思とはどのようなものか」、「そもそも、神とはどのような存在か」といった問いの答えを獲得することなのです。これを形而上学的な言い方をすると、「神の妥当な観念を獲得すること」と言えるかもしれません。神を見れば、紛争状態は解消する。「神を敬うこととは、疑わず、忠実に従うことだ」とするような態度とは全く異質な豪快な発想です。

もう一度確認ですが、神との血みどろの肉弾戦の只中に置かれているヨブにとっての「神」は、デウス・エクス・マキナ(ギリシャ演劇などで急場を救うために突然舞台に登場する神、急場しのぎの不自然な解決をもたらす存在)ではありません。後にイエス・キリストが教えるような、この世での信仰を評価して、あの世での宝を貯蔵してくれるような慈愛の神でもありません。

ヨブの神とは、この世とあの世を支配し、人間を圧倒する全能の力で、切実なセキュリティー問題です。ヨブは、まだ神を見ることには成功していませんが、身体の痛み、心の苦しみを通して、恐ろしいリアリティーを持った神の力と繋がっています。それゆえ、ヨブが「神の知恵」と呼んでいるものは、時には彼を喜ばせ、怒らせ、悲しませ、苦しめ、時には殺し、活かし、また解放する(権)力の働きに関する知恵の総合のことを指しています。ジル・ドゥルーズは、スピノザの神の概念を解説する際、「神とは全ての力能の包摂である」と書いたことがありますが、ヨブにとっての神のイメージもそこに近づいています。(「スピノザにおける表現の問題」、1章を参照)

神と対面し、この世とあの世を支配する力の法則を理解すること。絶望者ヨブは、崩壊した既存の社会的道徳の代わりとなる新たな倫理的体系を、この知恵の上に築くことができるという展望を、不確かながら持つに至ります。
しかし、ヨブと神との対面のときは、まだ来ません。おそらく、それを阻害している何かがある。ヨブ自身が、かなり核心に迫ることを言っています。

「神もまた、私の救いとなってくださる。神を敬わない者は、神の前に出ることができないからだ。(13:16)

神と対面する=神の妥当な観念を獲得するには、「神を敬う」必要があると彼は考えます。ここで思い出されるべきなのは、ヨブが、データよりも正論を根拠に語る彼の三人の友人を、偽りを語るがゆえに神を敬っていない者たちだと考えていたということです。ヨブにおいて、「敬う」とは、体験的な(経験的な)真実に対して真摯であることでもあります。

ヨブが、神と対面するためには、それを阻害するような既存の道徳神のイメージや固定観念を捨て去らなければなりません。ヨブにとっての解放が劇的に始まる瞬間=ヨブ記のクライマックスが訪れるのは、そうした準備が整ったときなのです。

続き→. https://note.com/kishotsuchiya/n/ne17e9698b3a9




※1 ゴ・エル≠「贖い主」、「神」という言葉について(19:25)。
新改訳聖書では、このヘブライ語のゴ・エルという語を「私を贖う方」と訳しているのですが、この語の翻訳はバージョンごとにかなりブレがあります。僕が所有しているフランス語の聖書では、redempteur=贖い主、defenseur=擁護者、vengeur=復讐者の3通りの翻訳の可能性があると解説されています。ここでは、ヨブは、通常旧約で言及される力の神=ヤハウェとは異なるもうひとりの生きた神について言及していることが明らかなため、「贖い主」と訳すのは妥当かと思われます。我々キリスト教以後の世代の人々は、ゴエルをキリストのこととして読んでしまいがちですが、ヨブの時代の神話に沿って考えるならば、エジプトやカナンの民間伝承における裁きの神だと考える方が妥当かもしれません。
※2 28章28節、知恵の賛歌の結論について。

僕はこの部分「神を怖れ、悪を避けよ」は、これが当初尋問者たちが主張しているのと同じ意味で言われているのだとしたら、この章でヨブが言っていることの結論としては、不自然です。またしても文献学者たちに頼ることになってしまいますが、この28章後半の知恵の賛歌と呼ばれている部分は、最も遅い時代に挿入された部分だと考えられており、この不自然さは後の付け足しによるものと考えてもよさそうです。

※3 「私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいない(9:33)」
これは討論の一周目の後に当たる部分での発言ですが、このあたりからヨブにとっての神は、以前の裁判官且つ検察官という位置づけから、純粋に裁判上の敵になります。比喩的にではありますが、神を自分と同じ立場まで下げてしまいます。彼の尋問者たちが憎悪の度合いを高めていく要因の一つはここにあります。

※4 「知恵はどこから~悟りのある場所はどこか」
この引用文には、“神の知恵”、“神の悟り”と補足した方がわかりやすいかもしれません。

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