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ヨブ記の解説(下)倫理世界の再構築

エリフの演説と神との対面

最後になりますヨブ記の解説(下)では、エリフの演説「神を見る」というビジョンからなるヨブの復活について書いていきます。エリフは、端的に言えば「ヨブは神よりも自分の正しさを主張している点で正しくない」という論法で討論に参入してくる若者です。彼の演説の後、ヨブが神のビジョンを見ることで和解が成立し、物語の結末へと向かいます。このノートでは、ヨブ記の結末というより、ヨブ自身がどのように神との戦争状態の終わりを体験し、新しい倫理世界を再構築することができたのかという点に着目して読んでいきます。


エリフの演説:「正しさ」の罠から抜け出すこと

討論の3周目の終了後、ヨブの尋問者たちは、ヨブを罪に定めることをあきらめますが、ここで唐突に登場するのがエリフという人物です。登場シーンは以下のようになります。

「すると、ラム族のブズ人、バラクエルの子エリフが怒りを燃やした。彼がヨブに向かって怒りを燃やしたのは、ヨブが神よりもむしろ自分自身を義としたからである。彼はまた、その三人の友に向かっても怒りを燃やした。彼らがヨブを罪ある者としながら、言い返すことができなかったからである。エリフは、ヨブに語りかけようと待っていた。彼らが自分よりも年長だったからである。しかし、エリフは、三人の者の口に答えがないのを見て、怒りを燃やした。ブズ人、バラクエルの子エリフは答えて言った。(32:2~6)」

やや余談になりますが、エリフの実在性には、疑問をはさむ余地があります。というのも、それまでの箇所には3人の尋問者たちがやってきたと書いてあるだけで、エリフに関する言及がありません。エンディングにおいても同様で、演説の後なんのフォローアップも無いまま物語から退場します。まるで、無理やり彼の存在が挿入されたかのような唐突な登場と退場です。そして、ヨブ記の中でこの人物の発言の前後だけが、妙に神学的に洗練されているのです。神の現前を前触れする預言者の役割を務めるものとして、後世の人々が挿入したというのが、ほとんどの歴史家たちの意見です。

弁神論的な神学者たちは、エリフの演説をヨブ記の結論の一部として解釈する傾向があります。世俗の知識人たちの多くは、エリフやヨブのビジョンについてどちらかといえば否定的な見解を示しており、ヨブ記は「結論が安易」だと苛立ちを表明している人もいます。ヨブ記よりもヨブという人物よりの解釈を提供したアントニオ・ネグリは、「ヨブがエリフに完全に説得されるとは思えない。」、「ヨブは嘲笑するに違いない」と、独創的な見解を展開していますが、私はネグリに近い立場から書いていきます。

エリフはヨブにとっては最悪の敵でした。エリフは、ヨブに罪を認めさせるために恐ろしい詭弁を持ち出してくるだけでなく、彼に語る機会を与えないのです。エリフの演説を細かく見ると、ヨブは反論したがっていたのに、それを許されなかったと信じる根拠があります。例えば、エリフのセリフの中には、「黙れ」とか「聞け」とか「耳を傾けよ」などの指示語がやたらと多い(33:12、33:31-33、34:10、34:16、37:14など)。これはヨブと他の尋問者たちが議論していた場面では全く見られず、ヨブを含む聴衆がエリフの演説を聞く態度が静かなものではなかったことを表しています。

特に33章32~33節におけるエリフの態度はひどいものです。

「もし、言い分があるならば、私に言い返せ。言ってみよ。そうでなければ私に聞け。黙れ。あなたに知恵を教えよう。(33:32~33)」

実際の会話にすると「言い返せ。言ってみよ」の約3秒後に「黙れ。あなたに知恵を教えよう。」です。「ならば」と意気込んでいたヨブが、若造に「黙れ」と言われて口をあんぐりと開ける姿が目に浮かびます。

このように、エリフの演説は、ヨブ記の重要な部分ですが、ヨブ個人の闘争の結論としてはやや不適切と考えるべき点がいくつかあります。

ただ、エリフは、純粋にヨブの敵というわけでもありません。エリフの言説は、一方ではヨブにとってはばからしいものなのですが、他方でヨブをある種の固定性・自己完結性から開放し、飛躍させるような点を持っています。エリフがヨブに勝利するのではなくて、ヨブがエリフを利用して神との対面に至るのです。実際、神を見たのはエリフではなく、ヨブなのだから。その意味では、ヨブのエリフに対する笑いというのは、(もしそれがあったなら)嘲笑と嫌味の笑いだけではなく、驚異に直面したときの微笑みを含んでいたかもしれません。

本題に戻していきますが、エリフもまた、ヨブに罪を認めさせることだけに関心があるという点においては、尋問者たちの一味です。エリフの主張の主要な点を理解するために、演説のいくつかの箇所を引用します。

「確かにあなたは、この耳に言った。私はあなたの話す声を聞いた。『私はきよく、そむきの罪を犯さなかった。私は純粋で、よこしまなことがない。それなのに、神は私を攻める口実を見つけ、私を敵のようにみなされる。神は私の足にかせをはめ、私の歩みをことごとく見張る。』聞け。私はあなたに答える。このことであなたは正しくない。神は人よりも偉大だからである。(33:8~12)』

ここが有名な、ヨブの自己義認の罪を指摘したとされる部分です。つまり、ヨブは、具体的な罪を犯しているわけではないけれども、自分を正しい、特に神よりも正しいとしている点で、神に対して罪を犯しているという主張です。

補足ですが、自己義認の罪を認めるということは、通常の・伝統的な意味での悔い改めにはあたりません。「自分は正しく、罪を犯していない」という点は結局否定されることがなく、咎められたのは「自分は正しいと思っていること」だけなのです。それはヨブの傲慢だと言うこともできそうですが、律法を犯していないという意味でのヨブの正しさは絶対です。また、ヨブは討論中に「神と比較して人間が正しくあれるはずがない」という主旨の発言をしていることを考えれば、エリフの主張はやや強引です。

続いて、エリフの演説から引用します。

「なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに神がいちいち答えてくださらないからといって。神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。(33:13~14)」

そして、

「天を仰ぎ見よ。あなたより、はるかに高い雲を見よ。あなたが罪を犯しても、神に対して何ができよう。あなたのそむきの罪が多くても、あなたは神に何をなしえようか。あなたが正しくても、あなたは神に何を与えようか。神は、あなたの手から何を受けるだろうか。あなたの悪は、ただ、あなたのような人間に、あなたの正しさは、ただ、人の子に、関わりを持つだけだ。(35:5~8)」

ここでも人間の正義と神との通訳不可能性の問題が取り上げられています。しかし、呆れたことに、エリフは応報的正義の理論を完全に捨て去った上で、弁神論を展開します。神の偉大さとそれに対応する人間の難聴を根拠として。エリフにおいては、神は神だから絶対的に無限に正しいのであって、ヨブの正しさは人間の相対的なものです。

「あなたは知っているか。神がどのようにこれらに命じ、その雲にいなずまをひらめかせるかを。あなたは濃い雲のつり合いを知っているか。完全な知識を持つ方の不思議な御技を。また、南風で地がもだすとき、あなたの着物がいかに熱くなるかを。あなたは、鋳た鏡のように堅い大空を神とともに張り伸ばすことができるのか。神になんと言うべきか私たちに教えよ。やみのために、私たちはことばを並べることができない。私が語りたいと、神にどうして伝えられようか。人が尋ねるなら、必ず彼は滅ぼされる。今、雨雲の中に輝いている光を見ることはできない。しかし、風が吹き荒れるとこれをきよめる。北から黄金の輝きが現れ、神の周りには恐るべき尊厳がある。私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない。だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みない。(37:15~24)」

こちらはエリフの演説の最終局面で、その次の章でのヨブと神との対面を準備する部分です。ここでエリフは、議論の対象を自然現象にうつしています。彼は、実際に起きているけれども、その原理が人間には理解できない様々な事柄について、ヨブが知っているはずがないと指摘します。「ヨブは知識もないのに語る。」この部分は、人間の知識と神の知恵の通訳不可能性という意味では、ヨブたちの結論と一致していますが、エリフが語っているのは「正しさ」の基準の話ではなく、自然現象=神の生産活動の話です。

このように、ヨブを罪に定めるのに躍起になり、先の3人よりもよく準備をしてきたエリフの演説は、効果的ではありますが、細部に着目していくと詭弁と神秘化に満ちています。極めて嫌味で攻撃的なヨブなら、それこそ嘲笑しただろうと考えることもできそうなものです。

しかし、エリフの演説は、彼の意図とは反する方向にではあるけれども、ヨブの思考を飛躍させます。ヨブは、エリフによって自らの思考の虚をつかれるのです。エリフが登場する前までのヨブは、神との通訳不可能性が問題だと気づきながらも、「自分の正しさ」という考え方に強く執着していました。

「私の権利を取り去った神、私のたましいを苦しめた全能者を指して誓う。私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり、私の唇は不正を言わず、私の舌は決して欺きを告げない。あなたがたを義と認めることは、私には絶対にできない。私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。私は自分の義を堅く保って、手放さない。私の良心は生涯私を責めはしない。(27:2~7)

振り返ってみると、ヨブと彼の尋問者たちとの議論は、ヨブと神の正しさをめぐって進んできたのであり、そこから離れていくことはありませんでした。とことん非生産的で平行線の議論です。

しかし、エリフは2つの点で、ヨブの思考を道徳の問題から解放するのです。まず、エリフによる自己義認の罪の指摘は、ヨブにおいては罪の悔い改めに至るのではありません(そういう神学者もいるけれど)。「あなたは、自分を正しいとしてる点で正しくない」と言われるとき、善悪の問題として全ての現象を解釈することのバカバカしさにヨブは気づくのです。ヨブを罪に定めようと必死なエリフの演説を都合よく採取することにより、ヨブは「正しさ」から解放されます(罪からではなく)。「正しいか正しくないか」という尺度をまだ使っていたことが、ヨブの間違いだったのです。
2つ目に、エリフが自然現象を神秘化していく場面です。エリフは言います。

「ヨブは何も知らない」

自分は知っていると思っていたヨブだからびっくりします。あなたは空がどうやって広がっているかを知っているのか。稲妻がどんな原理で起こるのか知っているのか。ここでヨブ記において初めて、道徳の問題から、世界の創造や生き物の生産へと議論が移行します。

32章までのヨブの思考は、「正しさ」を前提としているがため、自己完結した閉じた思考でした。しかし、エリフを利用し、ヨブは初めて自らの強い思考力を創造の領域へと展開します。

そしてヨブは、神を見るのです。


神を見る:いかに倫理世界が作り変えられるか

まず、ヨブ記の結論に当たる最終章は、ヨブ個人にとっての結論ではなくて、むしろヨブの論敵たちにとっての結論として書かれている点は注意した方がいいです。内容的には、

(1)神の全能性が再度証明されたこと
(2)ヨブが自己義認の罪を認めたこと
(3)ヨブの幸運が回復したこと

この3点で構成されています。しかし、今までのノートを読んでくださった方ならば既に知っていることですが、ヨブが絶望したのは、そもそも神が全能だったからであり、罪を認めることや幸運の回復は、ヨブの望みではなく尋問者たちの望みなのです。この結論は、ヨブの絶望からの復活とは直接的には関係がなく、ヨブが思考してきたことをぺしゃんこに潰してしまいます。ヨブ自身の絶望からの解放の道筋は、ヨブ記の結論によって隠蔽されているのです。ヨブ記の構成自体に、ある種の弁神論、ヨブを抑圧しようとする力が働いていると言わざるを得ません。 

さてクライマックスが始まる神のビジョンを見る場面にて、人間社会における「正しさ」から解放されたヨブは、自身の思考を、道徳の領域からから創造的領域にシフトさせています。

このヨブが神と対面し、神との関係を成立させていく38~41章は、ヨブ記が現在の形になるずっと前から存在していた最も古い部分だと言われています。この部分の内容については、「浅い」とか「ヨブは神と和解するべきだはなかった」など、批判的な見解を示している先行研究もあります。

私はとりあえず表面上の浅さは置いておいて、ヨブがどのような体験をしたのか考えてみます。というのも、ヨブの時代には、現在我々が使っているような哲学の伝統や用語法自体が存在しておらず、ヨブの神秘体験や思考の道筋は、論理的に言語化するのがそもそも不可能だったのではないかと考えられるからです。ヨブ記の難解さというのは、言葉の難解さではなくて、言葉が足りないことによる解釈の難解さなのです。

では、ヨブと神との対面というのは、一体どのような(精神)現象だったのかと考えてみたいと思います。

「主は、あらしの中からヨブに答えて仰せられた。(38:1)」

この部分についてキリスト教徒たちの読書会で議論していた際、ヨブは「神を見た」のか、それとも「神の声を聞いた」のかということが話題に上りました。ある友人は、ヨブは神の声を聞いたのであって、見たわけではないと主張していたのです。38章1節に「主は~答えて仰せられた」と書いてあることや、その後に神直々の言葉とされるものが続くことなどが、「ヨブは神の声を聞いた」理論の根拠のようです。この「ヨブは神の声を聞いた」理論は、ヨブよりもヨブ記のナレーター側に立った見方です。それでは、あまりに言葉の表面的な意味に囚われてしまい、ヨブの精神の中で起きた現象をポジティブな形で創造的に解釈することが不可能になってしまいます。

それに対して、私自身を含むいくらかの解釈者たちが主張する「ヨブは神を見た」理論の根拠は、主に42章5節のヨブ自身の言葉にあります。

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」※1

ヨブは、「人づてで聞いた」という2次的な認識から、直接的に「目で見た」という認識上の変化を表明しています。私の意図は、ヨブに起きた精神現象の特異性を明らかにすることです。そのため、ヨブ自身のセリフに従って、「ヨブは神のビジョンを見たのだ」という解釈を進めます。

ヨブが見たビジョンの最初の部分は、エリフの演説の最後の部分と深いつながりがあります。エリフは、ヨブの無知を明らかにするために、氷、水、雲、南風、稲妻、空などの神の創造物の神秘を語りましたが、ヨブが見た神もまた、自然現象について語ります。

「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするものはだれか。」
「私が地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。」
「海が吹き出て、体内から流れたとき、誰が戸でこれを閉じ込めたか。」
「あなたは海の源まで行ったことがあるのか。深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。」
「あなたは地の広さを見極めたことがあるのか。」
「あなたは雪の倉にはいったことがあるか。雹の倉をみたことがあるか。」
「東風が地の上でちり広がる道はどこか。」
「あなたはすばる座の鎖を結びつけることができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。」
「雨雲を数えることができるか。だれが天のかめを傾けることができるのか。」(38章から抜粋)

この辺りは、ヨブの思考がエリフの演説を経由して道徳から神の創造的生産活動へとシフトしていることが読み取れる部分です。人間は議論の中心であることを止め、神もまた人間だけの神であることを止めています。ヨブは、自分が生きたことのない時間を眺め、行ったことのない土地のビジョンを見ています。

38章後半以降、ヨブのビジョンは、獣(けもの)たちの世界へと向かいます。
「あなたは雌獅子のために獲物を狩り、若い獅子の食欲を満たすことができるか。」
「烏の子が神に向かって泣き叫び、食物がなくてさまようとき、烏に餌をやるのはだれか。」
「あなたは岩間ののヤギが子を産む時を知っているか。」
「牝鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。」
「誰が野ろばを解き放ったのか。」
「野牛は喜んであなたに仕え、あなたの飼い葉桶のそばで夜を過ごすだろうか。」
「あなたが馬に力を与えるのか。その首にたてがみをつけるのか。」(38、39章から抜粋)

こうしてヨブの世界はどんどんと脱ヒューマニズム化されていきます。個人的には次のダチョウに関する箇所が好きです。

「だちょうの翼は誇らしげにはばたく。しかし、それらはこうのとりの羽と羽毛であろうか。だちょうは卵を土に置き去りにし、これを砂で温めさせ、足がそれを潰すことも、野の獣がこれを踏みつけることも忘れている。だちょうは自分の子を自分のものではないかのように荒く扱い、その産みの苦しみが無駄になることも気にしない。(39:13~16)」

ヨブが見ているのは、神の創造的生産活動=自然界のカオスです。そこでは、だちょうの産卵とその卵の受苦、烏の子供達の餓死や、野ロバや野牛の人間界から隔絶された生活=食物ネットワークと生殖活動の連鎖は、何の道徳的な目的論をも持ちません。

そして今度は、ヨブはカオスの中から自分自身を覗き込みます。ヨブに起きた惨劇もまた、ただ起きた理由があるだけで、何の道徳的目的論も意味もないことが示唆されます。それは必然的に・平然と起きているが、ヨブにはその原因もメカニズムもわかりません。ヨブは、この景色を見て驚異し、何かを悟りますが、彼にはそれを言語化する能力がありません。

「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私は繰り返しません。(40:4~5)」

ヨブが最後に見る神のビジョンは、神が怪物たちと戦って勝利するというものです。

「さあ、河馬(ベヘモット=ベヒーモス)を見よ。これはあなたと並べて私が作ったもの、牛のように草を喰らう。見よ。その力は腰にあり、その強さは腹の筋にある。尾は杉のようにたれ、ももの筋は絡み合っている。骨は青銅の管、肋骨は鉄の棒のようだ。これは神が造られた第一の獣、これを作られた方が、ご自分の剣でこれに近づく。(40:15~19)」

「あなたは、釣り針でレビヤタンを釣り上げることができるか。輪縄でその舌を押さえつけることができるか。あなたは葦をその鼻に通すことができるか。鈎をその顎に突き通すことができるか。これがあなたに、しきりに哀願し、優しい言葉であなたに語りかけるだろうか。これがあなたと契約を結び、あなたはこれを捕らえていつまでも奴隷とすることができるだろうか。あなたは取りと戯れるようにこれと戯れ、あなたの娘たちのためにこれをつなぐことができるだろうか。漁師仲間はこれを売りに出し、商人たちの間でこれを分けるだろうか。あなたはもりでその皮を、やすでその頭を十分に突くことができようか。その上にあなたの手を置いてみよ。その戦いを思い出して、二度と手を出すな。見よ。望みは裏切られる。それを見ただけで投げ倒されるではないか。これを起こすほどの狂ったものはいない。(41:1~10)」

「だからだれがいったい、私の前に立つことができよう。だれがわたしにささげたのか、わたしが報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、私のものだ。わたしは彼のおしゃべりと、雄弁と、美辞麗句に黙っていることはできない。(41:12)」

こうして、神はベヘモットとレビヤタンに勝利し、自身の全能性を証明することとなります。しかし、ヨブが「神」と呼んでいた存在は、むしろ怪物たちと戦い、それらに勝利することによって、この食物連鎖と生殖活動の連鎖によって構成されたカオスの一部でしかないということを逆に証明してしまうのです。たとえ、彼が最強の主体だとしても。

私には、ヨブが見たビジョンは、テキスト上は抽象的な方から始まり、具体的な方へ向かって終わっているように見えます。それを逆にして読んでみると、ヨブがたどり着いた最も抽象的な点がわかるはずです。

逆さまにされたヨブのビジョンでは、まず「神=全能者」を見る(40、41章)。この存在は、怪物たちに勝利するが、結局人間を含む動物たち全般に殺し合いを強制するカオスの一部でしかない。この時点で、ヨブは神=全能者のさらに向こうに動物界のカオスを見ている(39章)。さらにヨブは動物も人間もいない時代(地や光の創造)や場所(宇宙や地の果て)を見ている(38章)。戦いの神や獣たちのカオスさえそこでは存在していない。しかし、そこには自然を生産する何らかのメカニズム、「永遠無限の実有」、以前イメージされていた裁判官兼検察官としての神よりも大なる実体としての神が見えている。

こうして、ヨブは新たな神の観念を獲得するに至ります。ヨブ記における神の観念の変化を再度考えると、まず道徳的な神の姿が尋問者たちの中にはあり、それはヨブが掲示する力の神のイメージによって破壊されます。裁判官兼検察官でもあった力の神の立場は、ヨブの発言がエスカレートするに従って純粋にヨブの裁判敵となります。40~41章において、ヨブは戦いの神が怪物に対して勝利するビジョンを見ますが、それ以前に、より高次なメカニズムを見ているがゆえ、神の観念は刷新されています。

こうして、ヨブは宣言します。

「あなたにはすべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。(中略)私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分を蔑み、ちりと灰の中で悔い改めます。(42章から抜粋)」

ヨブが自分を蔑むと言っているのは、神=永遠無限の実有の視点から自分を観察するというメタ視点を獲得したからです。自分の正しさ、苦悩、悲劇といったものを、永遠無限の必然性、神の生産活動の全体性から垣間見ることで、彼は生と死、苦悩の必然性を肯定し、神の生産活動に自ら参加することができるようになります。神を見たがゆえ、ヨブと神の間での戦争状態は消え失せており、彼は絶望もしていません。スピノザが、「妥当な神の観念を獲得した者は、神を憎むことができない」と言っているそのことが起きています。

これがヨブの立場から見たヨブ記の最終地点です。

結局、ヨブは抵抗して、誰に勝利したのでしょうか。おまけとしてついてくる結論では、ヨブは弁神論者たちのために祈っています。ヨブは神とともに生産するものとなったがゆえ、すでに尋問者たちとの関係は根本的に変化しています。

ユングが言うように、ヨブは神に勝ったのでしょうか、それとも吉本隆明が解釈したように神に負けたのでしょうか。この問いは、ヨブにとってはナンセンスだと思います。これもまた言語化するのが難しいことですが、最終局面でのヨブは、すでに神の創造的活動に参加しているのです。勝った負けたは、ヨブの結論になってはいないのです。

最後に、ヨブにおけるヨブ記の位置づけに関して言えば、それは人生の途中で起きた非常に短い出来事です。ヨブは、「その後、140年生きて長寿を全うした」と書いてあります。ヨブ記以後のヨブの思想については記録がありません。我々には、想像するしかないのです。

まとめ

挫折しても、絶望しても、より強くなって復活する。そんな人物としてヨブを読み込んで来ました。ヨブは、「正しい人が裁かれる」という自身の体験から、応報的正義の道徳世界が崩壊してしまい、どん詰まりの絶望に陥るわけです。

しかし、神との戦争状態、尋問者たちとの一見不毛に見える討論の繰り返しを通して、最終的には新しい倫理世界の構築に成功します。しかし、それは自分が陥っている絶望の本質的な問題を明らかにしようとする長い泥沼の戦いを経てのことです。その中で、神との通約不可能性という問題に至ります。つまり、神の意思については理解しようもなく、理解できない相手にとって「正しく」あることは不可能で、和解のしようも無いという問題です。もう少し今風に言うと、世界情勢や自分が置かれている状況やそのパターンに全く法則性を見つけられないため、どう自分の生活や活動を方向づければいいのか検討がつかないという状態でもあります。

現存しているバージョンにおいて解釈するならば、ヨブはエリフという他の応報的正義を掲げる尋問者たちとは違う趣向を持った敵対者と向かい合うことで、問いをずらすことに成功します。「自分の正しさ」に関する議論から、神と世界の生成活動に思考をずらし、その参加者として自分を位置づけ直すことにより、倫理世界を再構築します。道徳神も裁判敵としての神も、観念としては一旦「死んで」、より大きな実体の認識に至ります。そうすることで、神や友人たちとの戦争や自らの絶望状態を終わらせ、新しい認識に基づく力を行使する者となるのです。


※1 耳か目か
聖書における預言には、いくつかの種類があります。1つ目は、神と直接、face to faceで会うことによって地上における神的な地位が証明されるというパターンです。この種は、非常に少なく、ヨブ以外では大預言者モーセのみです。2つ目は、神の声を聞くという種類です。サムエルやエレミヤなどは、声を聞き、それを解釈することなくありのまま伝えたとされる預言者です。3つ目にビジョンを見るというのがあります。イザヤやエゼキエルがその例です。夢を見てそれを解釈したヨセフやヨハネも広義ではこの類に入ると思います。実は、キリストに関して言えば、彼の預言がどう神とつながっているのかは不明です。精神と精神(霊と霊?)で、といったところでしょうか。
しかし、ビジョンを見た人間が、それをどう正確に言語化して人々に伝えるのか、というのは預言の厳密さを求められる聖書の世界では重要な問題です。モーセ曰く、神の言葉に加筆修正することは、原則禁止です。ですので、預言者のビジョンをどう理解するのか、というのは、センシティブな問題です。

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