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【小説】螺鈿の髪留め

内海肇(ウツミ ハジメ)は蒸し暑い梅雨(ばいう)の中を、二本の傘を携えて歩いていた。一本は彼自身の傘で、今差している。もう一本は濡れてしまわないように、持ち手を握る拳を胸に当てるようにして庇っていた。さらには、細長いビニール袋をかけていた。それは、彼が勤める会社から発行されたポスターカレンダーを包んでいたビニール袋で、クローゼットの肥やしにしていたのを昨夜に思い出して、しめたとばかりに傘の防水にリサイクルしたのである。カレンダーは今年のものか去年のものか、はたまた一昨年のものか確認せずに筒状のまま捨てた。

その傘は、学生劇団の先輩である宮田良路(ミヤタ リョウジ)からの借り物だ。宮田はシンガーソングライターをしていて、充電期間で地元に帰って来ていた。その間、宮田は祖母の空き家に泊まっていて、よく呼ばれて一緒に飲んでいた。この前は学生劇団で一緒に活動していた仲間と宮田の送別会をして、その帰りに借りた物だ。宮田は明日、東京へ戻ってしまうので足の悪いなか、こうして内海は宮田を訪ねたのだ。

中華屋の前に差し掛かると、淀んだ雨に油と香辛料が混ざった匂いに彼は顔を背け、少し早足になって一軒隣りの敷地に入った。石畳を進んで奥の風徐室に着くと、まず風徐室の引き戸を開けて、その中に抱えてきた傘を立て掛けてから彼自身の傘を閉じた。彼も中に入り、先に立て掛けておいた傘のビニール袋を外してから、呼び鈴を押した。

玄関に上がると、宮田が内海を迎えに出た。宮田の様子を見た内海は、また酔っている、とニヤニヤした。内海は返しに来た傘をニコニコしながら宮田に掲げ、傘立てに差した。すると、千鳥足でこちらに向かって来る宮田の背後からちり……ちり……という音が鳴っているのに気がついて、内海は猿のように顔面を赤くした宮田を見上げた。玄関のへりまで進んだ宮田が、内海に抱きついて来た拍子に、彼には宮田の頭の上半分の髪を留めている簪(かんざし)が見えた。

「その辺にあったの借りた」

と、宮田は答えた。宮田を居間まで運んで、酒の相手をしながら、内海は宮田の簪(かんざし)を一瞥した。風鈴の短冊のような金細工の飾りが三枚下がっている。宮田が酒をあおる度、飾りが糸飴のような光を放つ。宮田が酒をあおる度、内海は簪に目が行っていた。

酒も肴も、あっという間に無くなった。内海は時計を見て彷彿とした。そうして、こんなに時間が早く過ぎるなんて、と楽しさを確認していた。

「宮田さんは本当に強いなぁ」

と内海は微笑んだ。

「この前の送別会で、何人潰しましたっけ?」

「知らない」

「八人ですよ」

内海がそう答えた時、呼び鈴が聞こえてきた。

「俺、出ます」

と、へべれけの宮田を制して内海は立ち上がった。

来客は三島問衣(ミシマ トイ)だった。内海にとっては学生劇団の同期生になる。問衣は、内海が迎えに出た一瞬、戸惑い、

「宮田さんは?」

と尋ねながら奥を覗いた。

「酔って休んでいるから、代わりに聞くよ」

内海がそう答えると、問衣は背負っていた鞄を下ろして中身を探り始めた。すると、問衣も頭の上半分の髪を留めているのが見えた。変な髪留め、と内海は思った。黒い楕円形で、斑に塗りが剥がれていて、その剥げたところが虹色に光っている。工芸品っぽいな、とか、問衣もお祖母さんとかから借りたのかな、とか内海が思い浮かべていると、問衣は本を一冊彼に差し出した。井伏鱒二の『山椒魚』とあった。

「これ返しに来ました」

内海は本を開いた。ナイフを象った銀細工の栞が挟まっていた。

「ユニークな栞だね」

内海は笑って、問衣に栞を差し出した。問衣は反応しなかった。

「問衣のじゃないの?」

問衣は頷いた。

「宮田さん呼ぼうか?」

と内海が尋ねたら、問衣は鞄を背負った。その時、彼女は小さく首を横に振ったが、内海はそれを見逃していて、少しだけムッとした。

問衣を見送り、預かった本を宮田に渡した。

「これ、あげたのに」

と、宮田は表紙を撫でながら呟いた。内海は、てっきり「貸した」のだと思っていたので顔をしかめたが、ニコニコしながら尋ねた。

「栞が挟まっていたからだそうですよ。栞もあげたんですか?」

宮田は栞を抜き取り、今初めて見つけたかのように、「あーこれか、祖母ちゃんのだ」と言った。

「ほら、真面目な子だからさ」

宮田が栞を掲げて見せると、内海は面白くなさそうな顔をした。

「酒買ってきます」

と、内海は傘を持って外に出た。信号を渡れば直ぐコンビニがある。コンビニの入り口で傘を閉じていると、問衣が雑誌売り場で立ち読みしているのが見えた。内海が中に入っても、問衣は気がつかなかった。内海は酒と肴を買った。

内海はコンビニを出て、信号で問衣と鉢合わせそうになった。内海は、そっと立ち止まり、少し遠くで信号が変わるのを待った。雨が紗(うすぎぬ)のように信号の光を淡くしている。問衣が歩き出したので、内海も続いた。問衣は傘が不自然なくらい水平になるように差している。傘の影から、あの変な髪留めが見えたり隠れたりしているのに、内海は目を凝らした。

一瞬。本当にほんの一瞬。地べたに踞って叫びだしたくなるほどの得たいの知れない気持ちが内海に蘇った。

小学校の時、彼は同級生の髪留めを毟り取って泣かせた。従姉がしていた髪ゴムのように、髪の毛の流れに沿って引っ張れば解けるのだと思ったのだ。だが、その子の髪留めは裏についている金具を外さなくてはいけないものだった。それは、引き千切った手応えと共に、手のひらの髪留めを見て分かった。

だが、それは縁日の屋台の金魚がたらいの角を尾鰭で叩くくらい一瞬だったので、彼自身、掬い取れずに済ましてしまえた。彼自身、忘れているのとは違う。忘れようとしているというほど、囚われているわけではない。彼は、しいて言えば、言葉にならない思いを抱え込みやすい人だった。

問衣の髪留めが虹色に光っている。この重い雨雲の下で、紗(うすぎぬ)のように光を覆ってしまうはずの雨の中で、鮮やかな虹色を放っている。

内海は、自分が問衣の髪留めに手を伸ばしている錯覚を起こして悲鳴を上げそうになった。取り落としそうになった傘を握りしめたら、水滴が豆のように落ちた。

内海は、問衣の髪留めの裏側はどんなだろうか、と遠ざかる問衣を眺めていた。真一文字の銀色の金具が思い浮かんだ。だが、その想像が彼自身のどんな経験が元になっているのか、内海は気に止めていなかった。

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