シェア
静 霧一/小説
2020年10月1日 18:26
「やっほー。待った?」「待ってないよ。さっき着いたところ」 私たちの挨拶の始まりはいつもこうだ。 朋美は意気揚々に目白駅に到着すると、そのまま私の手を引いて護国寺方面へと歩き出した。 目白通りの町並みは、どこか新しいものと古いものが混在するとても不可思議さがあった。 途中不忍通りとの分岐点があり、そこを過ぎると建物はより古いものが現れる。 並木道から見え隠れする少し寂れた建物たち
2020年10月2日 18:24
「待たせちゃいましたか?」「待ってないですよ、さっき来たところです」 一週間後の土曜日。 私は塩浦くんとの食事のため、池袋駅の中央改札口で待ち合わせをしていた。 午後7時の池袋はすでに夜の喧騒がごった返し、どこか怪しげでありながら未知の路地裏へと誘い出されそうな、そんな都会の裏側のような香りが漂っていた。 私たちは歩幅を合わせ、その夜の街へと吸い込まれるように消えていく。 2人
2020年10月3日 19:21
鮮やかで美味しそうな食事の香りが、テーブルに広がる。 食べましょうかと、料理を小さく取り皿に取り分け、フォークでそれらを口に運んだ。 その美味しさに、私たちの顔が思わず解れる。 緊張が解けると、人の体というのは急に食欲が湧きたつようで、私は求めるようにテーブルの食事を頬張った。 ひとしきりの食事を終えると、お酒のメニュー表を見て私たちはミディアムボディの赤ワインを頼んだ。「そうい
2020年10月4日 19:30
「申し訳ないです。繁忙期で仕事が抜けられそうにありません。もう少しだけ待っててください」 その一通の連絡に私は落胆した。 あれから1か月後の12月23日のことであった。 お互いは日々の多忙に追われながら、なかなか時間を作れずに過ごし、気づけばクリスマス間近になってしまった。 私は小さな茶色い紙袋を持ちながら、一人でカフェの窓際のテーブル席に座っている。 食事を取る時間を作れればよか
2020年10月5日 18:26
彼は優しく私の手から紙袋を受け取った。 その紙袋から小さな包み紙を取り出し、ゆっくりと開封する。「すごく触り心地いいね。こんなにいいものありがとう」 彼は思った以上に喜んでくれた。 その様子に私はホッと胸をなでおろす。 私が彼にプレゼントしたものは、水玉の細かなストライプが入った一枚のハンカチであった。 右端には小さく「Paul Smith」と白く印字されている。「買いにく
2020年10月6日 18:38
「あけましておめでとうございます」 早いもので1年という暦はあっという間に通り過ぎ、新たな年になった。 長期の正月休みが終わってしまい、動かしていなかった体はどうも凝り固まっていて、年初めの初出社はとても億劫であった。 年始の会社の朝礼では、全社員が会議室に集められた。 私たちの顔など覚えてもいないであろう上層部の役員が長い演説に飽き飽きし、その向かない気分の先を塩浦くんへと変えた。
2020年10月7日 18:30
私は人だかりというものが苦手だ。 それは行列やテーマパークだけに限ったことではない。「それでは我が社の前進を祝して、乾杯!」 専務が新年会の嚆矢となる挨拶の声を上げた。 社員たちはそれに倣い、シャンパングラスを掲げると、「乾杯」と合唱した。 私は近くにいた加藤さんとカチンとグラスを合わせ、小さく乾杯と呟いた。 年の初めから早いもので1ヶ月が経ち、あれだけ盛大であった新年の祝杯は
2020年10月8日 18:50
「上井さん、この伝票のことなんですけど……」「あぁ、これですね、これは……」 いつもと変わらない忙しい平日が私のもとへと戻ってきた。 変わったといえば、私と東条さんとの距離感だろうか 空気感というか、雰囲気というか、青色だったものがオレンジ色に変わったと言えばわかりやすいと思う。 笑いあって談笑なんてする仲じゃなかったのに、東条さんはふいに冗談なんていうものだから、私はそれにつられて
2020年10月9日 18:41
「ただいま」 誰もいない家の中に、疲れ枯れた声が響く。 まだ週初めの月曜日だというのに、私の背中にはすで平日でため込むはずの疲れが背中の上に乗っている。 すぐさま服を着替え、部屋着姿になるとベッドの上にごろんと寝ころんだ。 いつもならすぐに化粧を落とすのに、今日はなんだかそれすらも億劫に感じる。 うすいガラスの仮面が顔にべったりと張り付いていて、それは家の空気と混じりあうことなく、ま
2020年10月10日 19:02
「お待たせしました」「いいえ、そんなに待っておりませんよ」 洒落た人たちが行きかう恵比寿駅に不釣り合いな私と、似合いすぎる東条さんが巡り合う。 それはまるでパズルの凹と凸のようにも思えた。 時刻は18時ちょうどを指している。 2月14日の街並みは赤いリボンに彩られ、周りを見渡せば手を繋ぐ恋人たちが互いに微笑みあいながら、鼻歌交じりに行きかっている。 駅構内の電光掲示板には"赤い日の
2020年10月11日 18:52
「上井さんってどうしてこの会社に入ったんですか?」「たまたまですよ。たまたま受けた会社にたまたま入社出来てって流れでしたかね。なにか信念をもって入ったとか、やりたいことがあってとか、そんな大それた理由なんてなくて、本当にたまたまなんです」 今の会社に入った理由なんて、本当にたまたま内定をもらったところだなんて恥ずかしくて言えなかった。 今でもずっと続いているのが不思議なぐらい、私は今の会社
2020年10月12日 18:38
「今はちょっと考えられないかな……それに私も気になる人いますし」 動揺が心に波を打つ。 それを隠すかのように、気づけば口が勝手に話し始めていた。 ワインはすでに空となり、もう一杯と次は深めの赤ワイン注文する。「気になる人ですか?」「はい。相手は私のことあまり気にかけていないような気もしますが」「どんな人なんですか?」「悔しいことに年下です。私も年下の男の子を好きになるだなって全
2020年10月13日 18:44
お店を出て、少しばかりふらつく足に注意しながらエレベーターへと歩いてゆく。 そんなに飲んだ覚えはないのに、どうも体が言うことを聞かない。 私はもつれる足を慎重に運びながら、ゆっくりとエレベーターへと乗り込んだ。 そして、壁に肩を寄りかからせ、呼吸を整える。「大丈夫ですか?」 私の肩を支えるように、東条さんは優しく私の背中から右肩へ手を伸ばし握った。「はい……大丈夫です」 小さ
2020年10月14日 18:34
「塩浦……くん?」 彼は隣の影とともに立ち止まった。「上井さん……?」 お互いが立ち止まる。 彼の隣には加藤さんが驚いた顔で突っ立っていた。「なんでここに……?」「あなたのほうこそなんで加藤さんと……?」「いや、これはあの―――」 戸惑う塩浦くんに加藤さんの腕に引っ付いた。「デートしてたんです!」 彼女の声が私を突き刺すように放たれる。「いやデートって加藤さ―――」