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「仮想世界の設定」自滅回路+人々と平和に暮らしていた頃の記憶

この記事ではこの世界にかけられている「設定」の一つ「自滅回路」についてと、「人々と平和に暮らしていた記憶」の思い出し方について触れます。

ただ、かなり荒療治になるので話半分に見ていただけると幸いです。

「人々と平和に暮らしていた記憶」、については下記の自己紹介を見てくださるとわかりやすいと思います。

魂の「縄文時代の経験情報」のことです。


これまでの記事の中で世界には「表」と「裏」があることをお伝えしてきました。

「表」とは「ホメオスタシス」や「カクテルパーティー効果」などによってあらゆる情報を捻じ曲げることで成り立つ「社会」という「仮想世界」。

「裏」とはそれらのVRゴーグルが外れた世界です。
 「表」では制限していた「動物的本能」や「本質」を見抜く「直感」などによる「現実」という「仮想世界」。
 また脳の制限が解除され、それまで認識できなかった周波数帯を知覚できるようになることで「神」や「天使」や「悪魔」、「幽霊」、「宇宙人」も同居する「真実の世界」。



このように書くと私が「表」の世界を軽視していると勝手に解釈する方がいることを、これまでの経験上知っています。

そんなことはありません。

というのも、平和への兆しはここまでVRゴーグルを何重にも重ねることでようやく見いだすことができたものなのです。
それが仮初めだったとしても。

また世界には、相反するものが均衡を保つことで物事が成り立つ、という設定があり、「表」と「裏」のどちらが欠けても世界は崩れてしまうのです。

「社会」も「現実」も「真実」も全て大切なものなのです。

あくまで私の理想としては、「表」と「裏」をある程度自由に行き来できる人間をこの世界に1人でも多く増やしておきたいのです。

そういうわけで、

あんまり「裏」に身を置きすぎて地に足着いてない方には「社会」の重要性を理解していただきたいし、

あんまり「表」に身を置きすぎて足が地面にこびりついている方には「見ている世界はひどく曖昧である」ことを認識していただきたいのです。


世界や物事の本質を知るためには「裏」に身を置く必要がありますが、あまり長い期間「裏」に身を置きすぎると「コワレテ」しまうか「コワシテ」しまいます。

この設定を私は「自滅回路」と呼んでいます。
裏側に身を置くことで、その個体は次第に「本質依存症」となってしまうのです。
本質以外は無価値である、と。


しかし社会とは本質から目を逸らすことで成り立つ仮想世界ですので、本質依存症となった人間の見る世界では「私」対「世界」という構図となってしまうのです。
そうなってくると「コワス」か「コワサレル」という道へ繋がってしまうのです。

社会という仮想世界を構築したモノたちが仕組んだ設定です。
本当は「本質をベースとした社会」を構築する道もありましたが「見たいものを見ていた方が楽」という個体の方が多かったので今の現状となりました。


非常に、非常に厄介なことなのですが、裏側に身を置きすぎると自滅回路が作動して世界から削除されてしまうのに、裏側に身を置く人間が少なくなると「相反するもの同士が均衡することで世界が成り立つ」の原則が崩れてしまうのです。

だからあなたに「表」と「裏」をある程度自由に行き来できてほしいのです。ただ,簡単なことのように書いてしまいましたが、これが本当に難しいことです。

「裏」から「表」へ戻ってくるには「まごころ」が必要であるとお伝えしました。


では「表」から「裏」へ行くにはどうすればいいでしょう?

「荒療治」をお伝えします。

単純な話で「表」が

見たいものしか見ない、
聞きたいものしか聞かない、
知りたいことしか知らない、
それ以外は「そういうこともあるのだろう」、

という世界なのだから、

見たくないものを見て、
聞きたくないことを聞いて、
知りたくないことを知って、
「そういうことはあってはならない」、
とすればいいのです。

あなたが不快に感じる刺激を身体に与え続けるのです。

例えば「隣国」嫌いの方はそのPOPSをひたすら聴き続けるのです。

(私は嫌いな音楽なんてない)、という方は嫌いな音楽をあえて探すのです。

世界とは非常に不思議なもので、金属が擦り切れるような異音や、女性の金切り声の悲鳴ですらも[音楽]と呼ぶことがあるのです。

そういった「音楽」を延々と聴き続けるのです。

また、何を言っているかわからない、何が言いたいかわからない、そのような本を探して読み続けるのです。

「口の中に綿を詰め込まされ、無理矢理飲み込まされている」

そのような感覚を「正しい」とするのです。
そして、その「正しさ」から目を逸らす周囲のモノたちを「人間ではない」、とするのです。

「不快さ」から目を逸らさないことこそが「善」であり、それができないものは「人間ではない」、とするのです。

その感覚を抱えたまま、学校や仕事にはきちんと行くのです。

それを一年ほど続ければ「裏」側の感覚が掴めるようになります。

「荒療治」でしょう?

だから、オススメはけっしてしません。

本来は裏側とは沢山の修行の果てに認識することができる世界なのです。

修験道だとか、武道だとか、瞑想だとか、祈りだとか、鎮魂だとか。

そうやって鍛え上げられた心・技・体によって辿り着く景色が本来は「裏」であり、それらの一つでも持たないで裏側に行こうとすれば「コワレテシマウ」のは半ば当然と言えるでしょう。


私はこれまでの記事で世界にかけられた様々な設定について触れてきました。

その内の一つが
「何かが存在するとき反対の何かも存在する(相反するもの同士が均衡を保つことで世界は成り立つ)」というもの。

Aという鍵はBという鍵を手にするための扉を開き、BはCと組み合わせることでDという鍵に辿り着くのです(それを現在の社会ではあべこべにされているため、一度A→B→C→Dと繋ぐノードを切り離して再構築する必要性があるのです)。

この世界は仮想世界。

VRゴーグルによって映される「人生」という「ゲーム」。

その「ゲーム」に「深刻な愛情の欠如」、という追加ソフトをダウンロードします。

「荒療治」のことです。

すると、「何かが存在するとき反対の何かも存在する」、という原則によって「深刻な愛情の欠如」に見合う「愛された記憶」もあなたの人生にダウンロードされるのです。

「地球に愛された記憶」、つまり、「人々と平和に暮らしていた頃の記憶」=縄文時代の頃の魂の経験記憶が、です。

ただしダウンロードされるだけで、それを掴めるかどうかはその個体次第です。


この記事の内容は私の経験則からのものであり、全ての人に対して有効なものではありませんので、最初に述べたように話半分にしてください。

以下は関連です。



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