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直島と瀬戸内


 直島について知ったのは大人になってからである。その他の瀬戸内に浮かぶ魅力的な島の数々も、二十四の瞳を読んだから何となく小豆島についてイメージがあるぐらいで、あとは瀬戸内海の高速から降りれる島以外は訪れたこともなければ知識もなかった。
 東京に住んでいると一定の層には「香川(もしくは岡山)といえば直島があるよね」などと自然に話に上がることがあり、アートと自然の融合という点で近年ブランド化されているのかと感心をした。それも、一緒に美術展に行ったりするお洒落な友達、海外の富裕層向けの旅行コーディネートをしている友達など、自分がほんわか憧れを抱くような対象が直島の素晴らしさを語ってくるので、私もいつか行かねばならぬと心には決めていたのである。
 それがつい一、二年ほど前である。帰省中にふと思い立って一人で日帰りで向かうことにした。祖父母の家がある善通寺市から電車やフェリーを乗り継ぎあっさりと到着し、なんだ自分の行動範囲からこんなに手の届く範囲にあったのかと拍子抜けする程であった。ありがたいことに天気も良く、しかし月曜日だから閉まっている施設も多いとのことで、人は多くなかった。コロナの影響でまだ海外からの観光客は来ていなかったからかもしれない。島に到着すると早速迎えてくれた草間彌生の禍々しいカボチャと海と緑と綺麗な空の画に、おお直島に来たぞと序盤から満足度が高かった。
 目論見通り無事に電動自転車を借り、お目当ての美術館に向かって走り始めた。しかしあまりにも日常と切り離されていて、はじめは何だか狐に摘まれたような気分であった。静かで、穏やかで、時間に追われたりあくせく動いていない自分自身の心の置き場所に困り、逆に僅かな焦りが消えず、せっかくだから効率的に写真を撮ろう、動画を撮ろう、満喫しようと躍起になった。

『瀬戸内の海は鳥肌が立つほど穏やかだった。控えめな潮の満ち引きの音がじんわりと鼓膜に染み渡っては引いていく。晴れ渡る空には何の淀みもなかった。自転車をこぎ出すと、海がきらきらと光を反射して眩しく輝くのだった。』
 これは私がその日に海辺で書いた文章である。こんな感慨に浸った後には一人で枝でクラゲの死骸を集めるというあまり情緒のない遊びをしたりして、不思議な気分のままそれなりに楽しんではいたのだが、その時の気持ちを言葉にしようとしてみると、やはり私の日常に囚われすぎた脳みそが、いつもと違う時間の流れや目に映る景色を上手く消化できていなかった。心を開いて脳も思考も解放したいのに、上手くその場と時間に自分が落ち着けていない、受け入れることができていないという違和感があったのである。一人だったからかもしれない。もしくは、一人だったから、自分の中に巣食うノイズに向き合わざるをえなかったのかもしれない。それを許す環境があるのに、ほんの一瞬ですら、私は自由でも、柔軟でもなかった。あえて言葉にすると、自分の感性の限界に不自由さを覚えながら、結局写真を撮ったり動画を撮ったり、誰にどう語って聞かせようかと、その瞬間の物事の只中にいる過程ではなく、後ほど振り返った時にどうなるか、という結果ばかりに意識が向かっていたのである。
 電動自転車を無理のない程度で漕げば、坂も案外すいすいと登り、自転車を降りなくてはいけないエリアに到達して、そこからは歩いて美術館や島のアートを見て回った。その安心感である。天才的芸術家たちとはいえ、アートには目的や意思があり、それをどう受け止めるかはこちらの自由にせよ、瀬戸内の海と空と妙に間延びした時間の感覚のように、私を一人にはしなかった。むしろ、これでも食らえ、というような強い主張を感じる作品ばかりであった。日本の片田舎の小さな島に、それらのアートは澄ました顔をして自然と調和するように並んでいるのだけれど、それらから溢れる決して穏やかではない圧力のある人間味が、私に遂に平穏を与えたのである。
 アートと海と自身の身体を使って歩くことや自転車を漕ぐことで生まれる充実感がそこにあった。そして少し走れば住民の生活がそこにあった。驚くほどに普通で、変わり映えのない、誰かの日常。この島は観光や休暇やリトリートやアートの為だけにあるのではない。この土地を後から選んだわけではなく、最初から生まれ育った人もきっといるのである。ただ、やはり時空から取り残されたような島の風いきが住民の痕跡も私たち部外者には敢えて映画のワンシーンに迷い込んでしまったような、一昔前に戻ってしまったかのような非日常であるかのように、感じられるのである。
 自然だけでは無垢すぎた、そこに人間の作る剥き出しの感情が、妙に調和し根付く生活と共にそれとなく納まっている。夜は祖父がみんなで食事をしたいということだったので、私はまだ日が出ているうちにフェリーに乗って四国へ帰った。


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