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映画と劇場

 仕事前、仕事後、休日の予定の間。私は数時間の隙間時間があれば、劇場に映画を観に行くことにしている。映画を観ている間は、その世界に没頭できるため、考えるべきことを考えなくて済む。いや、考えてしまうことはあるのだけれど、スクリーンに映し出される世界に反映させて考えるので、普段の悶々とした行き場のない感覚とは違う。映画には物語の対象の行動と感情があり、例え物語自体に結論がなくても、その行動と感情の結果ー少なくともそれに至るであろうまでの過程が見える。上映時間は決まっているため、普段の生活に区切りをつけることが出来るのも良い。終わる時間がはっきりしていれば、アラームのおかげで仕方なく起きる睡眠とは違う。その後の出来事の時間の確保はできているので、安心して、その数時間をスクリーンの前のシートに佇むことができる。安心して、この区切られた時間だけ、区切られた空間で、日常を手放すことができる。
 私は最近劇場で観てきた映画について、ただ好き勝手に語ることにした。ネタバレもあるだろうし、洋画への偏りが凄いのだが、観るのであれば少しは感想を残しておくべきなのではないかと思うのである。出ないと、最近何の映画観たの?と人に聞かれて口篭ってしまうような事態に成りかねない。いや、既になっている。休みの日に何をする?という問いに映画、と答えるのであれば、映画を観て終わるだけではなく、反芻する時間も敢えて取るべきだと感じたのだ。
 だから、今回は最近観てきた映画の感想を残していく。ネタバレもあると思うので、そちらはご注意を。
 先日、A24製作アリ・アスター監督の「ボーは恐れている」を観てきた。数年前同じく劇場で一人で観た同監督の「ミッドサマー」は観客の交際関係を破壊したいかのような、恋人への信頼を崩させるような作りで、さらに目を覆いたくなるようなグロいシーンも多かったような記憶があるのだが、今回の焦点は母子関係だった。そしてそこまでグロくも怖くもない。とにかく中年男性のボーが子供のように可愛らしく感じてしまったのは、ホアキン・フェニックのなせる技なのか。それなりに感情移入してしまうのでとても疲れた。私はボーのように恐怖に取り憑かれてはいないけれど、罪悪感と焦りに飲み込まれてしまったことはある。心の声に責められることも、最悪のシチュエーションに至っては常に想像してしまう癖もある。(ボーのように現実と感じることはない。)だから心理的描写が全く理解できないというわけではなく、寧ろ私にも理解できるぞ、という自分自身の過信と被害妄想に気がついて、ボーにも、自分自身にもやはりうんざりとした。映像は綺麗だったけれど、何よりもホアキン・フェニックスの目が綺麗だった。最近「ナポレオン」で彼を観たばかりだな、と思ったが、二つのキャラクターは驚くほどに似たように感じる。ナポレオンも軍事的才能と皇帝になるようなカリスマを持ち合わせていた反面、精神的に完全にジョセフィーヌ(私の大好きなヴァネッサ・カービーが演じている)に依存している子供のような姿が描写されていたし、最期は肉付きが良い自己愛の強いぼけっとしたおじさんになっているのがまさに同じである。さらに数年前の「ジョーカー」では痩せ細っていた記憶があるので、余りジョーカーの俳優か、とは思わなかった。彼は精神的に追い詰められていく表現が得意なのかもしれない。兎にも角にも、ボーは観ていて疲れるコメディだった。
 コメディと言えば最近ランティモス監督の「哀れなるものたち」も観た。エマ・ストーンのセックスシーンばかりの作品である。しかし、スチームパンク的な時代背景設定に、袖のボリュームの大きな衣装等、画面の中の色彩が綺麗だった。ちなみにこちらは主人公に全く感情移入できず、寧ろ幼児の彼女を甘やかす周囲の人間に怒りを覚えるという妙な立場からの鑑賞となった。また、とにかくエマ・ストーンの演技に感服させられ、そんな主人公は後から恥と倫理観、女性としての自負や独立心を身につけていくし、感情移入こそできないものの、単純に好きになれるキャラクターであった。こちらも同監督の「ロブスター」や「聖なる鹿殺し」ほどグロくはない。丁度観やすくなって良い。
 最近観た映画で鑑賞中も後味も好きだったのはアキ・カウリスマキ監督の「枯れ葉」である。恥ずかしながら、カウリスマキ監督の他の作品は観たことがないが、地味な映画かと思っていたら東京の各地の劇場でロングラン上映をしているし、私が観た会も席は一杯だった。洋画なんて世界でヒットしていようがなんだろうが、東京ではほとんどいつでもガラガラなので驚きである。ちなみにそれ以前に満席でおお!と思ったのは昨年上映開始日の朝に観に行った「ゴジラ-1.0」である。
 「枯れ葉」の何が良かったかと言われると、押し付けがましくない感情と個人の主張の描写だろうか。画のタッチも音楽も大好きだった。キャラクターはほぼ無表情とも取れる淡白な表情や声の表現に徹しているのだが、決して感情がないというわけではなく、寧ろその逆であり、各々の明確な意思のもとに動いている。その表現方法は、昭和の小津安二郎の映画を観ているのに近い感覚である。先に述べた二つの映画はショック療法ともいうのか、とにかく衝撃的な色使い、表現、脳みそがパンクしそうなほどな情報の洪水に呑まれるような感じであるが〔ハリウッド的)、反面「枯れ葉」は最低限かつ、完全な描写の潔さで心にすっと入り込んでくるような映画であった。とにかく良い映画を見た、という後味の良さが残る名画である。充分に味があるがうざくない脇役も良いし、笑顔もなければハグもない主人公の読み聞かせと下手なウインクに、なんだか完全に心を持っていかれてしまった。さらに同じ情緒不安定でも、淡々と酒に頼り、それ以上は無駄に乱れることなく一人で孤独に堕ちていくキャラクターは、先に述べた二つの映画のように泣き叫んで自らの恐怖や不幸と死への渇望を前面に押し出すキャラクター(私自身に近い)を見慣れた私にとって、なんと潔く美しくすら感じてしまったことか。エンターテイメントや贅沢とは無縁で、貧困と隣り合わせの希望のなさそうな世界に生きているのに、キャラクターの強さと身勝手さと、まるで木のように、生活を続けること、生き続けることを当たり前に選択する姿がなぜか私を癒やしたのであった。
 さらに淡々とした、写真のような構図が続いていく形での全く異なる表現方法ではあるが、リアリティと幻想に間を行き来する「葬送のカーネーション」という現代トルコ映画も良い作品であった。人間の不幸と、頑固さと、身勝手さと行動力、説明をする必要がないという驕り。そんな大人にただ従い、ついて行く子供。多くを語る彼らの目の反対に、こちらのキャラクターの表情の欠如は過酷な状況の表れだろう。しかし、どの登場人物にも神という概念があり、それが一致し、通じているのが、人間に対する希望としても感じられる。人が人であるのは死者を敬うからだろうか。最後には少女に自由が与えられたのだと信じたい。
 その他には思い出せる限りではあるが、こちらも初めて観た監督の作品である「ファースト・カウ」に夢とポテンシャルと少しばかりの行動力はあっても、何も成し遂げずに死んでいく人が殆どだよな、と現実を見せられ、オーストラリアのビーチの自然保護に尽力した母娘を描く「ブルーバック」に素直に感動したり、全くジャンルは変わるがボブ・マーリーのライブ映像×レゲエの歴史やミュージシャンを取材したドキュメンタリーを観たり、小学生の頃に好きだった仮面ライダー555の20年ぶりの映画を観たりした。昨年の鑑賞記録まで振り返るのは大変なので、とりあえずここまでにしておきたい。
 映画は私の日常のスパイスである。全てを投げ出して旅に出たい時、そうする勇気も時間も予算もない時に、私を数時間の旅に連れて行ってくれる。映画と物語のことしか考えない、贅沢な数時間。鑑賞を終えると、大混乱し、精神的に消耗したりもするのだが、一生愛していきたい趣味である。Netflixでも常に映像作品は観続けているのだが、やはり非日常に浸りたいなら劇場での映画鑑賞であろう。
 


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