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第15話 長髄彦の巻

 神武東征の旅 第15話 長髄彦ながすねびこの巻

 国中くんなか(奈良盆地)へ入ろうとする皇軍を待ち構える兄磯城軍。磯城邑しきのむらにあふれんばかりです。まずは兄磯城えしきに帰順をすすめるために、頭八咫烏やたがらす、次に(帰順した)弟磯城おとしき。そして初登場?兄倉下えくらじ弟倉下おとくらじ(誰? 高倉下? 兄弟いたの?)を行かせますが、兄磯城えしきは承伏しません。そこで軍師 椎根津彦しいねつひこはかりごとをたて、忍阪おっさかの道に女軍めのいくさ(陽動作戦で敵を引き付ける部隊)をやって、敵の精兵を深く誘い込みます。その間に炭をおこして道を塞いでいる墨坂の火を宇陀川の水で消して、主力精鋭部隊を敵の背後に回り込ませ、はさみ撃ちにしました。諸葛孔明ばりの見事な陽動作戦ですね☺

そうして兄磯城は討ち取られました。

赤矢印 兄磯城軍、青矢印 皇軍の進路


その時に歌われた久米歌(日本書紀現代語訳)

伊那瑳いなさの山の木の間から、敵をじっと見つめて戦ったので、我らは腹がすいた。鵜飼をする仲間たちよ。いま、助けに来てくれよ。

 鵜飼をする仲間とは、吉野の国つ神 苞苴担之子にえもつのこ(古事記 贄持之子)のことですね。


八咫烏神社から伊那佐山を撮りました。


八咫烏神社

拝殿
本殿 千木の内削ぎが気になりますが、まぁ、内削ぎ=女神とも限りませんので・・
神社由緒書によると八咫烏は宇陀の在地氏族の伝承とあります。『古語拾遺』に「八咫烏は、宸駕みゆきを導き奉りて、みづ菟田うだみちあらわす」とあります。意味は、(神武天皇がご覧になった)瑞夢のとおりに、菟田の道まで八咫烏がご先導申し上げて、その夢が正しかったことを実証したという意味ですが、「菟田の道まで神武天皇を先導した」が、いつしか「ま」が抜けて「菟田の道神武天皇を先導した」になったのかも知れません(知らんけど)☺
書置きのご朱印 

 

 兄磯城を討ちとった皇軍は、12月4日、いよいよ兄 五瀬命いつせのみことの仇、長髄彦ながすねびことの最終決戦に望みます。
 
 戦況は、一進一退のあと、突然空が暗くなってひょうが降り、金色のとびが飛んできて天皇の弓の先にとまります。まるで稲妻のような光であったため、長髄彦の兵は目がくらんで戦うことができなくなり、その隙をついて皇軍は敵に襲いかかります。

wikiより拝借しました


 たまりかねた長髄彦は使者を遣わして、天皇に言上げして、

 「むかし、天神あまつかみの子が天磐船あまのいわふねに乗って、天から降ってこられました。これを櫛玉饒速日命くしたまのにぎはやひのみことと申し上げます。私の妹の三炊屋媛みかしきやひめを娶って、御子をお生みになりました。この子を可美真手命うましまでのみこと(古事記は宇摩志麻遅命)と申します。それで私はこの饒速日命を君としてお仕えいたしております。いったい天神の子がニ柱おられるはずはありません。それなのに、どうしてさらに天神の子と名乗って人の土地を奪おうとするのか。私の考えではこれはきっとニセ者に違いない」と言った。

 その後、お互いに天つ神のしるしを見せ合って偽りでないことはわかったのですが、長髄彦は戦いをやめようとしません。

 饒速日命は、もともと天神がたいせつに思っておられるのは天孫のことだけであることを知っていた。天と人とは本来全く異なるものだということを教えても、わかりそうもないことを見て長髄彦を殺して、部下を率いて帰順された。


 長髄彦、仕えていた饒速日命に殺される。。


 あっけない幕切れでした(^_^;)

 ※『古事記』は饒速日命は神武天皇の後を追って降ってきて仕えたと記されます。『先代旧事本紀』は饒速日命はこの時すでに亡くなっており、宇摩志麻遅命が長髄彦を斬り神武天皇に帰順したことになっています。


 『記紀』に記すことを肯定的にとらえることを旨として話しをすすめている私ですが、このエピソードに関してはちょっと雑だなぁと感じます。饒速日命から神武天皇への国譲りを描こうとしたのはわかりますけど、金鵄も中途半端だし、饒速日命は神武天皇の曽祖父瓊瓊杵尊ににぎのみことと兄弟ですから、シチュエーション自体無理があります。 

 でも、まぁ、こういうところで重箱の隅をつつくようなこと言っててもなぁーと考えていたら、、

いや、まてよ。稚拙に思うところもあるけど、「天孫」への国譲り以外に、他に言いたいことがあるんじゃないの!? と思ったのです。

 長髄彦の土地に饒速日命が天降ってきて長髄彦は饒速日命に仕えた。そしていま饒速日命は神武天皇に帰順した。という事ですね。


 天皇統治の正統性をより強く描く『古事記』は、大和に神武天皇より先に統治者がいたとは書いていません。長髄彦はあくまで一豪族で、饒速日命は神武天皇より遅れてやってきます。

 対して『日本書紀』は有力氏族の纂記さんき(氏族の系譜や事跡などを記した文書)を提出させるなど、歴史書としての汎用性を持たせる為、イデオロギー的要素をできるだけ排除しようとしていますので、大和の国は、実は神武天皇が統治する以前にも統治者が居たことをこのシーンで描いているのではないかと思ったわけです。


神武天皇の巻最後に、天皇が巡幸し国見をして、

腋上わきかみのホホマの丘に登られ、国のかたちを望見して言われるのに、「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれども、蜻蛉あきつ(トンボ)がトナメして(交尾して)いるように、山々が連なり囲んでいる国だなぁ」と。これによって初めて秋津洲あきつしまの名ができた。

そして続けて、

昔、伊弉諾尊いざなぎのみことがこの国を名付けて「日本やまとは心安らぐ国、良い武器が沢山ある国、勝れていて良く整った国」といわれた。

また、大己貴命大神おおなむちのおおかみは名付けて「玉垣たまがき内つ国うちつくに(美しい垣のような山に囲まれた国)」と言われた。

饒速日命にぎはやひのみことは、天磐船あまのいわふねに乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名付けて「虚空そら見つ日本やまとの国」といった。

と記されます。ここは私が最も興味深いと思っている個所です。

 伊弉諾尊いざなぎのみことが国土を創造され、次に大己貴命大神おおなむちのおおかみが「玉垣の内つ国」ですから出雲ではなく奈良のことを言っています。饒速日命にぎはやひのみこと河内国河上哮峯かわちのくにのかわかみのいかるがのみねに天降ったと明記されます。それぞれが大和国のことをたたえる表現を記しているのですが、神武天皇橿原即位のあと、巻の最後にこれを記すのは、これもまた大和の統治者の変遷、大己貴命大神→饒速日命→神武天皇へ統治が移ったことを言いたいのだと思うのです。

  つまり、「神武東征譚のクライマックスシーンで世代を超越して大和の国の統治者の変遷を表し」そして巻の最後に、国見の話しで再びそれを補完するように大和の国を称える記述を挿入したのではないでしょうか。


 この推論でいくと、大己貴命大神は長髄彦?ということになりますが、世代を超越していますので、私は長髄彦は最初に大和を切り開いた大己貴命大神の後裔だと思っています。

  ただ、三輪山(大神神社)の大物主神は大己貴大神ではなく、子孫の長髄彦の御魂かも知れません。

 太古から、三輪山は奈良盆地において西の二上山と対をなして太陽の運行を知る聖なる山ですが、大物主を祀ったのは『記紀』にあるように、崇神天皇の御代で、たたりを鎮めるためでした。(詳しくはまた崇神天皇の巻で書きます)。

三輪山と二上山の写真は↓

 
 ちなみに、饒速日命の御魂は布留の高庭(現社地)に鎮まったと石上神宮は伝えます。


 話しは飛躍しますが、神武天皇と長髄彦の最終決戦地も通説の生駒市の伝承地ではなく、桜井市の磐余周辺ではないかと私は考えています。(本拠は生駒山地だとしても、決戦地=本拠とは限りません)。


 なぜなら、神武天皇の和風諡号 神日本磐余彦天皇かむやまといわれびこのすめらみことの|磐余《いわれ》、 (長髄彦の御魂を鎮める?)三輪山、金のとび鳥見山、そして皇祖神に大孝を申す為に皇祖神を祀った|霊畤《まつりのにわ》。全部が周辺に揃っていてそのほうが腑に落ちるのです。これが決戦地が生駒市になると地理的に違和感があって、それならなぜ磐余彦と言うの?なぜ霊畤は桜井市の鳥見山(或いは宇陀の鳥見山)なの?いろいろ疑問がわいてきます。

畝傍山、天香具山、耳成山は大和三山。神武天皇は畝傍山の麓 橿原宮で即位。側近・親衛隊の大伴氏(鳥坂神社)、久米部は橿原宮の南。


 生駒市だ、桜井市だとするのは全て後世の解釈であって、記紀は決戦地の場所を記していません。

長文になってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございます。神武東征の旅、このあとも建国まで続けます。


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