第12話 吉野の国つ神の巻
神武東征の旅 第12話 吉野の国つ神の巻
皇軍は八咫烏の先導で紀伊山地を越え、吉野から宇陀に入ります。
『古事記』は、吉野川の河口に着き、最初登場するのは贄持之子、次に井氷鹿、次に岩押分之子、そして宇陀へ入ります。
『日本書紀』は逆で、まず最初に宇陀に着き兄猾を討ちます。その後に吉野を巡幸され、井光、石押分之子、苞苴担之子の順で登場します。
〝記紀〟共に、石押分之子と井光(井氷鹿)は尻尾のある人(有尾人)と描かれます。〝記紀〟は、まつろわぬ(従わない)人々を土蜘蛛とか侏儒(こびと)などと蔑んだ表現を使いますが、国史編纂を命じた天武天皇と吉野は深い縁(隠遁時代に吉野の民が奉仕していた)がありますし、敵対する記述もありません。また、漁師の苞苴担之子(贄持之子)には尻尾がありません。
そうしたことから、私は石押分之子と井光(井氷鹿)は石材、木材、金属などを採取する人々で、修験者がつける「引敷」のようなものをつけていたと想像しています。
それでは登場する国つ神を順番にみていきましょう。
苞苴担之子(古事記 贄持之子)
〝記紀〟共に「阿陀の鵜飼の祖」と記します。奈良県五條市〝にえもつの里〟に鎮座する式内 阿陀比賣神社。主祭神は阿陀比賣大神。この神は〝記紀〟神話に登場する 木花咲耶姫のことです。
当地には「阿多隼人」と呼ばれた人々が移り住み、鵜を飼い梁を仕掛けてウケで魚を取って暮らしていたと思われます。奈良県五條市では伝統漁法「やな漁」が行われています(現在は観光用)。
石押分之子(古事記は岩押分之子)。
吉野国栖らの始祖。〝国栖〟は「くにす」とも訳され、「国を住み家とする者」の意味。つまり古い時代から吉野に住んでいる者達ということです。巨石信仰は日本古来の自然崇拝の一つです。
井光(古事記は井氷鹿)
〝記紀〟には出自に関する記述はありませんが、『新撰姓氏録』に、吉野連(吉野首)の祖 加弥比加尼と記されます。また、同書先祖伝承には、天から降臨した白雲別神の娘で名を豊御富と言い、神武天皇から水光姫の名をいただいて、いま水光神として吉野連に奉斎されていると記されます。このことから、女性神であり、水神としての性格が強いと考えられています。その他に丹(水銀朱)との関係を指摘する説などもありますね。
伝承地は二か所あって、
もう一つの伝承地。奈良県川上村にある井光神社。
地元には、井氷鹿は神武天皇を案内して、土地神谷を過ぎて休石に腰をかけた後、御船山の尾根にある拝殿で波々迦の木を燃やし鹿の骨をもって卦をたてて占い、御船の滝岩上に宮柱を立てて天乃羽羽矢を納め、進軍の勝利を祈願したと伝わります。
井光に関しては、「海部氏勘注系図」にある伊加里姫とする説もありますし、新撰姓氏録に吉野眞人と大原眞人は同祖と記され、大原眞人の項目に「出自敏達(天皇)孫百済王也」とあることから、曲解して吉野連は百済の王族だとする説をネットで見かけた事があります。
個人的には、海部氏の「本系図」はまだしも、「勘注系図」に関しては全く信憑性に欠けると思っていて信用していないのと、百済王は多良王の誤記とも言われ、朝鮮半島の百済の人物ではありません。そもそも敏達天皇は第30代天皇ですから、井光の話しに持ち出すのはまるで違います。
〝|水光姫《みひかひめ》〟いろいろな説が飛び交います。それだけ神秘的で人気があるということですかね(笑)
またずっと後ですけど葛城の長尾神社の話しの時に取り上げてみたいと思います。次回は宇陀の巻 その1です。お楽しみに〜!
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