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推しは聖徳太子。

札幌市内のカフェで作業をしていると、
女性2人のこんな会話が聞こえてきた。


「あたし思うんですけど、聖徳太子って平安時代のみんなの『推し』だったと思うんですよね」




むむむ!


隣の席でスーツを着こなし、パソコンをパチパチしながら、1人で優雅にコーヒーを飲む私だったが、この発言にはさすがに作業の指をピタッ!っと止めざるを得ない。

これに対する私からのツッコミは2つ!

[1]聖徳太子は平安時代ではなく飛鳥時代だ!
[2]推し!?たしかに…もう少し聞かせて!


私は「あなたたちの会話なんて聞いてませんよ。私は私の仕事を一生懸命やってますからね」というすまし顔で、彼女たちの会話に耳をダンボにした。

「聖徳太子はみんなの『推し』だったと思う」だなんて聞いたことがない。歴史好きには捨ておけない理論である。その理論の根拠が聞きたくて失礼ながらその会話にしばし集中することにした。


「だって、太子が亡くなってから太子の奥さんは、刺繍とかして、みんなで太子の死を悼んだっていうし」

この人は聖徳太子を「太子」と呼ぶタイプか!そんな人は初めて見た!


「太子の素晴らしさを伝えるために厩戸で生まれた、なんていう逸話を作るくらいだし」

待て!この人、やけに聖徳太子に詳しくないか!?


「しかも太子は千年以上前の人なのに、お札の肖像画に採用されてるし」

たしかに!


「だから私が思うのは、太子はあの頃のみんなの『推し』だったんだって思うんですよね。あぁ〜現代に『推し』っていう概念があって本当によかった〜」

た、た、た、たしかに!!!



ただ、思った。

そうまで太子に詳しく、尊敬しているあなたが、どうして平安時代と飛鳥時代を間違うのか!!!


ふむ。


これを機に私も聖徳太子を「太子」と呼ぼうかな、と心に決意した。

太子はあの頃の日本人の「推し」だった、という理論には妙な説得力があって、私はコーヒーを飲んでパソコンをいじりながら、noteを開き「推しは聖徳太子」というタイトルだけを入力して喫茶店を後にした。




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〈記事から引用〉
>今日は、聖徳太子が作った(と言われる)十七条の憲法の一部を現代語訳して、それが現代にも通じるものであるのかどうかを考えてみたい。この憲法が出来たのは今から数えること約1400年前だというから凄い。


〈あとがき〉
聖徳太子、いまやその存在すら疑問視される日本史上の伝説の人ですが、文献を見る限り、彼に限りなく近い人はいたのだろう、というのが通説のようです。飛鳥時代の権力者の都合で作り上げられた人物像かもしれませんが、きっとそのモデルになった人はみんなから「推される」人だったんでしょうね。最後までありがとうございました。

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