屋根裏のアンコールワット。
小さなころから行きたかった。
カンボジアのアンコールワットに。
資料集の写真を食い入るように見つめる小学生だった。学校の図書室に1人で行って『世界の不思議』みたいな本を読みふけっていた。
心をとらえて離さない。
アンコールワット。
ガシッと。
富良野のひいおばあちゃんの家の屋根裏には、誰が集めたのか分からない『子ども世界遺産』みたいな本がたくさんあった。そこにも載ってた。アンコールワット。
お盆に富良野に行くとワクワクしたのは、あの屋根裏部屋があったから。ドサっと積まれた本。私だけのアンコールワットがそこにあった。
もしも目の前に、チケットが2枚あるとする。
一つはコロッセオ行き。
もう一つはアンコールワット。どちらを選ぶ?
アンコールワット。
一つはモン・サン・ミシェル行き。
もう一つはアンコールワット。どちらを選ぶ?
アンコールワット。
一つはマチュピチュ行き。
もう一つはアンコールワット。どちらを選ぶ?
これはどっちも行ってみたい。
てことは、マチュピチュとアンコールワットは私の中ではイコール関係にあるように思われる。
いつかカンボジアに行けたなら、アンコールワットをこの目で見たい。そしたら、必ずあの巨大建造物を写真に撮って、植物だらけの仏像たちに想いを馳せて、時空の旅にライドオン。
20代中盤で、1回目の転職をした。新聞の広告代理店からの転職。「辞めます」と伝えたときの社長たちはこの世の終わりみたいな顔だった。
ごめんなさい。でも、私は私の人生を生きてるから仕方ない、と思って押し切る。ここから世界が始まるんだ。溜まっていた有給を消化するための日々が始まる。
「あ、カンボジア行こう」
思った。
1人で。旅に。
小さなころから見てた場所に。
アンコールワット。
2016年頃だと思う。
まずやったことはカメラを買いに行くことだった。憧れの一眼レフを手に入れるために。ソニーだ。札幌市内中心部のソニーストアに向かう。
ソニーの店員さんに勧められるがままカメラを買った。なんかすんごい高かった。あと、胡散臭かった。カンボジアの風景を収めるためのカメラ。必要な出費。ビーグル犬を引き取った気分。よーし。
で、カンボジアへの飛行機のチケットとホテルを予約する。エクスペディアで。パスポートの番号や名前をローマ字で入力する。ホテルはボロそうだけど、気にしない。俺はアンコールワットに行けるならどこでも眠る。
ホテルと中心部の距離とかもどうでもよくて、特に下調べもせず予約した。値段は忘れたけど、なんか高かった。
アンコールワットだもん。
思い出す。
はじめて資料集でアンコールワットを見たときの気持ち。秘密の屋根裏。ひいおばあちゃんの家にあった不思議な本。そこに載っていたアンコールワットの魔力。宝箱を開けたときのような気持ちにさせてくれる。それがアンコールワット。
日程も決まった。次はカンボジアの言語だ。旅で訪れたときにせめて「ありがとう」くらいは言いたい。本を買わなきゃ。よし、ブックオフ。安心と信頼のブックオフ。ブックオフ麻生店に突撃。探す。
「カンボジア(クメール語)」
300円の本。さすが。即購入。
よしよし、順調。
かくして、
・一眼レフ
・カンボジア語の本
・チケット
・宿泊先
・そして自由な時間
完璧。カンボジアが俺を待っている!
友だちにも連絡した。
「俺はカンボジアに行くぞ!
アンコールワット! フハハハッ!!」
当日になった。
新千歳空港の国際線ターミナルに向かう。ジーパン、白シャツ、黄色い帽子、首からソニーをぶら下げて。常夏の服装。空港カウンターに行った。きれいなお姉さんにパスポートとか色々渡す。なんかチェックしてもらう。
「えぇ、そうなんです。
今から1人でカンボジア行くんです」
誇りに満ち満ちた顔で。
声には出さない。
パスポートと旅券を、
きれいなお姉さんが見比べる。
お姉さんの顔が「あれ?」という顔になる。
むむむ。
「お客様…旅券とパスポートのローマ字が異なっておりまして」
「ぬぬぬん」
パスポートのローマ字と
旅券のローマ字が違うらしい。
Ito
Itoh
パスポートには”h”がついてないけど、旅券には”h”がついてるらしい。この間違いがあると、別人とみなされるらしい。”h”をつけてチケットを取った。パスポートには”h”がついてなかった。
間違えちゃった。
きれいなお姉さんが受付の裏に消えた。
エライ人を呼ぶらしい。
私は?
落ち着いている。最高に落ち着いている。
このくらいじゃ当時から動じない。
エライ人が出てきた。
中国人風の男性。
「どこのサイトで予約しましたか? そこに問い合わせれば、変えられるかもしれマセン」
「えーと、エクスペディアです」
と、伝えると、
「Oh…Expedia…」
トホホ、という顔だった。どうやらエクスペディアは評判が悪いらしい。事実、電話をかけても繋がることがなかった。
「イトーさん、この旅券ですが…」
「はい」
「行きは行けるんです」
「はい」
「行こうと思えば行けるんです、カンボジア」
「カンボジア」
「ただ、ただですね」
「はい」
「帰って来れません」
「帰って来れないんですか」
「はい、帰って来れません」
「カンボジアから…」
「帰って来れないんです」
「…」
「そ、それでも行かれますか?」
「帰って来れませんもんねぇ」
行かなかった。
日本でまだやるべきことが山ほどある。
カンボジアで待ってる恋人がいるわけでもない。
飛行機の時間になったけど、ターミナルで立ち尽くした。カンボジア…アンコールワット…返金…なし。
うーむ、まぁこういうこともあるかぁ。
これくらいじゃ動じない。
その足で、国際線の別の航空会社の窓口に行った。もしかすると、安い金額で香港あたりには行けるんちゃうか、と思って。
で、聞いた。
窓口の別のお姉さんに。
「あの、アンコールワット行けなかったんですけど、この後の香港行きって席あいてますか?」
「え?」
「香港っていくらですかね」
「30万円です」
なんでやねん。ぼったくりか。
結局、そのままトボトボ帰った。新千歳空港でラーメンを食べて。常夏の格好で。ソニーのカメラを首からぶら下げて。ガラガラを引いて。また電車に乗って札幌にトンボ帰りした。
札幌に戻ってきたあと、ちょっとシャクだった。なので、九州あたりから来た観光客のフリをしようと思った。「時計台ってこっちですか?」って尋ねて案内してもらって「ありがとうございます!アハハ」なんて言っちゃったくらいにして。時計台をパシャパシャソニーに収めたくらいにして。
あれから、カンボジアに行こうと思ったことはない。
いつかこれを読んだ私の子どもが「ねぇ、お父さん、カンボジアに行きたくない?アンコールワットを見に」なんて言ってくれたなら、それは素敵で。
子どものころ、富良野の屋根裏でひとり目を輝かせた。いつかアンコールワットに行く、という私の夢。それを現実に叶えてくれるような、そんな会話。思ってさえいれば叶うから。
そんなやさしい子どもが我が家に来たら。
アンコールワットなんて行けなくてもいい。
うそ。
いつか行ってみたい。
◾️友だちと、スペインには行けている
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